写ルンですのこと

「だから、もう僕にとって短三度は存在しなくて、差音を加味すると…」

友人ふたりが、キーボードを挟んで熱烈に話している。たまに鍵盤を叩いて何かを聴き取っている。耳を澄ませてみるものの、彼らの言う音が聴こえているのか、気のせいなのか判別できない。私は半ば諦め、ふと思い立ってかばんをまさぐる。

かちかちかち、気づかれないようにそっとフィルムを巻く。塵で見えにくくなっているファインダーを覗く。知的好奇心に高揚した人間の顔がふたつ映し出される。私は息を詰めて、シャッターを切る。突然フラッシュを焚いても許してくれる友人がいるのは、ありがたいことだ。

私はこの「写ルンです」を、もう4ヶ月ほど使っている。27枚撮れて、あと8枚ほどのこっているからだいたい6日に1枚撮っている計算になる。

写真を撮るのが趣味、というわけではない。スマートフォンのギャラリーは配布資料(すぐなくしてしまうので電子化が欠かせない)や、Twitterでみつけた猫、家族写真、その程度。ある日ふらりと写真やさんに立ち寄って、これを買った。1380円也。そこそこする。店主の「現像も是非うちで」、という声を背に店を出た。

特に撮りたいものもないな、とりあえず袋を開け、適当にレンズを向けて一枚撮ってみた。かちかちかち、と巻く感触、シャッターの微妙な手応え、撮った後のしずかな、きゅいーんという音。そしていまの光景をフィルムに文字通り焼き付けたという事実。世界を切り取って、かみさまにみつからないように隠してしまった。妙な気持ちだった。

それから、写ルンですはかばんの中にずっとあって、私のきまぐれでフィルムを焼かれている。

私は一体なにを撮っているのだろう?自分でもなにを基準に、どんなものをレンズに収めているのかわからない。しかも、たいてい撮ると忘れてしまう。現像したらわかるだろう。すぐ見返せないのも、悪くない。

でも正直なところ、なにを撮っていても、重要じゃないと思っている節がある。私は風景を撮っているように見えて、きっとめにみえない、私自身を撮っていたから。

美しい風景だから撮るのではなく、その風景にそめられた自分のこころを撮った。誰かの歓びをおもいだすために撮った。あのときの葛藤を閉じ込めるために撮った。きっとあの写ルンですは、私の鏡になっていて、あの塵まみれ越しに外の世界を覗く時、レンズには私のなかみが映っている。フィルムにはこの4ヶ月の私が、時を止められて封印されている。かみさまにもないしょで。こっそり。

彼らが話を中断して、こちらを見ている。ごめんごめんと手を振ると、またキーボードに戻っていった。彼らの興奮をすこし分けてもらって、私は私の記録としてのこした。残された儀式はあと8回。私は次に、なにを撮るだろう。


短歌や散文詩、曲を作ります。スキやフォローしてくださる方本当にありがとうございます、励みになります。ブログもやってます。