見出し画像

東京モーターショーの思い出

前回の記事で、経済最優先の考え方が、季節外れの野菜を作らせ、季節感が失われてしまったという話を書いた。

この記事を書いていて思い出したことがある。
それは僕がまだ、サラリーマンだった時のことだ。
当時は、まだうつ病は発症していなかったと思うけれど、自分の生き方に疑問を感じながら、忙しく仕事をしていたころことだと思う。
ある案件で、客先に打ち合わせに行くことがあった。
その客先が、千葉県の幕張にあった。

誘われて軽い気持ちで見に行った

それはちょうど、東京モーターショーが行われている時だった。
一緒に行った若い営業マンが、「せっかくだから見ていきましょうよ」と言ったので、あまり興味がなかったのだけれど、どんなものなのかと覗いてみた。

※資料によると、これは1997年に行われた第32回東京モーターショーで、東京モーターショーが最も盛り上がっていたころであったことがわかる。
この年を境にして、東京モーターショーは衰退していく。
それは、日本経済の衰退と同調している。
https://www.tokyo-motorshow.com/history/record.html

当時はすでに、バブルは崩壊していいて、日本経済の衰退は始まっていた。
1997年と言えば、山一證券や北海道拓殖銀行などが破綻した年だ。
日本経済は完全にピークを越えていた。
それはよくわかっていた中で行われた東京モーターショーだった。

華やかな空間に違和感を感じた

僕は当時、日本の経済は飽和状態にあると思っていた。
市場にはモノがあふれていたし、人々は何不自由なく暮らしていた。
自動車も、ほとんどの人が持っているような状態だったし、これからどうやっても、自動車が今まで以上に売れることはないだろうと思っていた。

それでも東京モーターショーは華やかだった。
平日の昼間だというのに、あの広い幕張メッセの会場には人があふれていた。
きらびやかなライトに照らされた自動車メーカーの各ブースでは、轟音で音楽が流れ、それに合わせてダンサーが躍っていた。
近未来的な車のそばには、露出度の高いコンパニオンが満面の笑顔で立ち、そのコンパニオンにカメラを抱えた男たちが群がっていた。
車の写真を撮っているのか、コンパニオンを撮っているのかわからない

地球環境が壊されていく

ああ、こうやって、無理やり盛り上げて、新しい車を世に送り出して、人々の購買意欲を刺激して、まだ乗れる車を捨てさせて新しい車を買わせるんだな。
そうやって、必要のないものをどんどん生み出して、必要のないエネルギーを使って、限りある地球の資源を消費して、地球が汚されていくんだ。
いったい人間って何だろう。
なんて愚かなんだろう。

そう思ったら、急に気分が悪くなった。
その空間に長居することができなかった。

一緒に行った営業マンには、「先に帰るね」と伝えて、早々に会場を後にしたことを思い出す。

経済活動から離れたいと思った

経済というのは、人間の限りない欲をエネルギーにして成長していたんだけれど、もうあの当時で飽和状態になっていたんだ。
あの、僕が見た東京モーターショーは、その最後のあがきだったのかもしれない。

僕は、あれを見て、経済活動に参画することが嫌になった。
だから、そういう経済活動から退きたいと思った。
これ以上、地球環境を汚すことに加担したくないと思ったんだ。

諫早湾の干拓事業

もちろんそれだけじゃない。
僕が九州営業にしたときに、諫早湾の干拓事業が始まった。
あの有名な、ギロチンと呼ばれた潮受け堤防の締め切りは1997年の4月14日だった。
当時、僕がいた会社の親会社は日本でも有数の重工業会社で、僕が務めていた九州営業所は、その親会社の九州支社内だった。
親会社は諫早湾の干拓事業にも参画していたから、同じ職場に担当者がいたということになる。

それでも僕は、あの光景を今でも覚えている。
次々に鉄板が海中に落ちていく。
僕は、地球が壊されいてる様子を見て、胸に迫るものがあった。
でも、社内でそういう感想を言ういことははばかられた。

諫早湾干拓事業について
https://youtu.be/-chlK6lTKcM

当時から、経済のために自然が壊されていくのは、本当バカげていると思っていた。
だから、会社を辞めて自然を破壊しない仕事をしたいと思った。

お義父さんのビニールハウスの話から、東京モーターショーの話を思い出し、さらに、諫早湾の干拓事業を連想した。

1997年はターニングポイントだった

考えてみれば、1997年という年は、僕にとって転機の年だったのだ。
4月に諫早湾の水門が閉じられた。
7月に、僕の本質に迫るシンプルな質問をされた。

9月に東京本社に転勤になった。
10月に東京モーターショーに出かけた。
11月には、山一證券と北海道拓殖銀行が破綻した。
12月に後の嫁さんとなる人に出会った。

そして翌年の1998年に、僕はうつ状態に陥ることになった。
この経緯については、noteにずっと書き綴ってきた通り。

そして、1998年は、日本の自殺者が三万人を超えて、それ以来13年間にわたって3万人を超え続けた。
辛いのは僕だけではなかったんだと思う。
日本の経済が音を立てて坂道を転げ落ちていく、そんな時代だったんだ。

(つづく)


自分がうつ状態に陥って、そこから這い上がってくる過程で考えたことなどを書いています。自分の思考を記録しておくことと、同じような苦しみを抱えている人の参考になればうれしいです。フォローとスキと、できればサポートをよろしくお願いします!