180316_耶馬溪視察_炭焼き鶏の解体_-61

生きるために食べる。食べるためにつくる。映画「リトルフォレスト」をみて。

何度目かわからないリトルフォレストの映画をみました。
僕らが耶馬溪という田舎でやろうと思っているのはまさにこういうことだなと再認識させてくれる。

やっぱりいい映画だなぁ。


タイトルにある言葉は、映画リトルフォレストの予告編に出てくる一節です。

生きるとは、他の「いのち」を奪うこと。
生きるために食べる。食べるためにつくる。

なんとなく、本編とは別に予告編をみてみたら出てきた言葉。

「まさに。」

予告編だけあって、リトルフォレストのエッセンスを真っ直ぐに表した言葉だなぁと。(まぁ予告編だからね。笑)


人は食べなければ生きていけません。
「食べる」ということは、それはつまり命をいただくということ。
別にそれは人に限ったことではなくて、生き物はみなそういう関係性の中で食べて、食べられて、生きています。

いのちを奪うところだけ見ると、確かに残酷だし可哀想。
「ごめんね」って口から出ちゃう。

一度体験したら「もうお肉は食べたくない」って思う人の気持ちもすごくわかる。



でも、食べるってそういうことなんじゃないかな。
残酷だけど、「いただく」ってそういうこと。
そうやってご先祖様たちも「いのち」を繋いできてくれたから、いま僕らがこうして生きているんだと思う。

殺して、いただいてる。

その現実は否定してはいけないように思います。
否定してしまうと、「いのち」に失礼な気がして。





それを知って、じゃあ、僕らはどうするのか。

お肉を食べずに生きるっていうのも大きな選択肢の一つだと思う。
でも僕は、自分で食べるものは責任を持って「いただき」たいから、そのために自分の手でつくりたいし、育てたいし、絞めてあげたい。

それを他の人に任せるのであれば、殺し方には文句を付けちゃいけないし、殺させた命にも文句を付けちゃいけない。
しっかり、ありがたく、いただく。



巷には綺麗に血抜きされて、精肉されて、梱包されているお肉が流通しています。というかそれがほとんど。
それが体温のあった生き物だとしても、スーパーに並んでしまうと
「安売りでお得なお肉」とか「少し贅沢したいときの高めのお肉」とか
良くも悪くも、経済が介入してきます。数字になっちゃう。

技術が発展したおかげで、いつでもどこでも新鮮なお肉が手に入って食べることができるのは本当にありがたいことではあるけれど、
そうやって生産の現場と食卓とがなんとなく距離ができてしまった今の時代だからこそ、僕らは「いただく」の本当の意味を忘れちゃいけないと思います。



今日もうちのシェアハウスではおいしい食卓が並んでいます。本当にありがたい。おいしくいただきます。



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