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ワニは静かに見つめている【短編】


 のらりくらりと生きているようでいても、時折奇妙なことに出会う。そういう話。

高校時代の体験が元になっています。

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 ふと見ると、ワニがいた。

 体長30センチほどの、小さなワニだった。静かな住宅街の道路脇に植えられた街路樹。その根元に、それはいた。


 私は丁度その日の授業を終え、空になった弁当箱をカタカタ鳴らしながら帰路についているところだった。はじめそれを見た時、私は自分の目が信じられなかった。いつもの光景の中に、ワニが一匹。じっと動かずに道路の方を見ている。

「え、本物…?」

 私は周囲の時間が止まってしまったかのような錯覚に陥った。日本に野生のワニがいるという話は聞いたことがない。しかし現に私の数メートル先に、ワニはいる。私はワニの正体を確かめるべく、おそるおそるワニに近づいてみることにした。

 ワニはピクリとも動かない。作り物かもしれない。だとすれば傍迷惑な人がいたものだ、と私は思った。しかし、ワニは夜行性だと聞いたことがある。まだ日のある今の時間帯なら、動かなくて当然だ。このワニが作り物でない可能性は大いにありうる。ワニは獲物を狙うために、身動きもせず目を凝らしているのだ。ジャングルの川に身を潜め、近づいた獲物を一噛みで餌食にするワニ。テレビで観た、ネズミ捕りさながらの捕食シーンが思い浮かんだ。

 学校帰りにワニの餌食になるなんて冗談じゃない。私は考え直して、改めて遠くから眺めてみることにした。


 しばらく眺めていると、他にも道を通りかかる人がいる。私は道端で何かをじっと見つめている姿を人に見られるのが恥ずかしかったので、電柱に寄りかかって何気ない顔をしていた。大抵の人はワニに気づかないが、中にはワニを見てギョッとする人もいた。しかし結局はどの人も、少し立ち止まっただけでそのまま通り過ぎてしまう。

 私はその内、道行く人の反応を見るのが楽しくなってきた。真面目そうなスーツの男性や、いかにも平凡な主婦といった感じの女性が、ワニがいるのを見てギョッとする姿は新鮮であり、滑稽でもあった。私は電柱の陰からじっと、横目で人々を観察し続けた。その間もワニはピクリとも動かなかった。


 十数分も経っただろうか。先程から人通りは途絶えている。住宅街は再び静けさを取り戻し、私はワニとふたりぼっちになった気がした。私はする事がなくなったので、少し冒険してみることにした。

 近くに落ちていた木の枝を拾い、ワニに忍び寄る。ワニはもうずっと動いていない。私には、ワニは絶対に噛み付いてこない、という根拠のない自信があった。

 私はさらに忍び寄る。はじめは気づかなかったが、間近で見るとワニが作り物なんかではない事がはっきり分かった。野生の生き物にしかありえない、細かい傷や模様がそれを証明していた。それでも私は忍び寄るのをやめない。

 私はすぐに逃げられるような姿勢で、ワニに木の枝を伸ばした。自分の心臓がドキドキしているのを感じた。意を決してワニをつつく。枝がワニの体に当たる感触がした。私は身をすくめた。


 ワニは動かなかった。


 恐る恐る持ち上げて見ると、ワニは作り物でも生き物でもなく、剥製だった。私は安堵とも失望ともつかないため息をついた。

 しかし、一体誰が何のためにこんな所にワニの剥製を置いたのだろう。ワニの正体が判明したところで、新たな疑問が頭に浮かんだ。イタズラだろうか。もしかしたら、さっき私がそうしたように、陰から道行く人の反応を見て楽しみたかったのかもしれない。この近くに住む人がそのためにわざと剥製を置いた、というのはあり得る話だ。

 そこまで考えた時、ある些細な考えがふと私の頭をよぎった。


「自分もずっと誰かに見られていたのではないか?」


 私は辺りを見回した。人気のない静かな住宅街。どの家も中の様子は分からない。カーテンの閉じた窓だけが、こちらを見ている。カーテンの陰に身を潜め、じっと私の事を見つめているかもしれない剥製の持ち主。その姿を想像すると、私は少し怖くなった。

 私はそっと剥製を元の場所に戻すと、足早にその場を去った。暗くなりつつある住宅街は、夜のジャングルのように見えた。



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