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良かれと思ってしたことが/ボロボロになれている今日も 【ミヒャエル・エンデ『モモ』第二部 8章】

こんばんは、匤成です。ミヒャエル・エンデの8章をレビューしたいと思います。

ふくれあがった夢と、少しのためらい

モモは、ついに“時間どろぼう”のことを知ってしまう。ベッポじいさんとジジはその事を聞いて沸き立った。敵のしっぽを掴んだというわけだ。だけど“本物のどろぼう”と違うから、奪われた時間を、どう取り戻せば良いのか分からない。


真実を皆に言って回るけど、本気に受け取ってくれる大人がいなかった。それで子供たちが集結して、作戦会議をひらく。

それを知るのが、他人から良く思われていないベッポとジジ、そのほかは全員『子ども』とは何という皮肉だろう。ほかの大人たちは取り合わなかったのだ。時間を奪われて疲れ切っているのかもしれない。

倹約は街を近代へと活性化させた。が、叩けばヒビが入るような材料を使う脆い街だ。

モモは街の大人たちが、みんな幸せそうじゃない事は、とうの昔に気づいていた。でも、モモ自身に何かできる術(すべ)があったわけじゃないから、ベッポとジジに訊いてみる事にした。

良かれと思ってしたことが

僕たちは、自分の気持ちには敏感(センシティブ)だ。大人の裏切りや嘘にオモチャにされて、信じられるものが見えづらい世の中。

僕は/私は確かに生きている。人間の感情が生々しくてどうにも痛い。今度こそ幸せを、安心をつかむんだ!と手を尽くす。

人間って本当に弱くて、痛いのも辛いのも嫌だから、自分にとってベストじゃないものを選んでしまう傾向にある。自分に甘くする人もいるし、反対に全てを自分のせいにした方が楽な人もいる。みんなで変な頑張り方をしてしまう。

良かれと思ってした事なのに苦しみは続くばかり。大人に頼らない子どもが増え、社会を見限っても仕方がないのかもしれない。若者たちはいま〈自分を守る方法〉を必死で探しているのだ。

モモの街と同じように、近代化は夢の架け橋に見えた時代があった。見てみたい明日・未来があった

いまの若者たちも『大人がすれば良いじゃん』とは考えていないはずだ。いずれは世代交代する。時が来れば、自分自身が決断するしかない。僕たちが一緒に歩いてあげられるのは、その何年も前までのことだ。

真実を語る大集会

エンデの絵には、壁に大集会の告知が書かれた貼り紙が幾つも描かれている。時間どろぼうの秘密、時間が足りないと思う本当の理由が語られるのだ。

モモと子供たちは、集会が開かれる事を街じゅうに行進して告げて回る。大人や警察が来ても挫けない子どもの純粋さと熱意。かっこいい。

ぼろぼろになれている今日も

エンデはナチ独の時代に生まれて、父親は「退廃芸術家」とみなされ仕事を減らされてしまったから、家族で生活苦に陥った。ミヒャエルもギムナジウム(中等教育機関)を落第するわ、父親は息子と同じ年齢ほどの若い愛人に入れ上げるわ、レジスタンスに参加するわで大変だった。

ボロボロになっていた時代だ。父親や時の権力者に対する違和感・苦しみと向き合うためにも、空想は助けてくれたはずだ。時間・時代に押し流される「ひみつ」を訴えたくて仕方なかったのだろう。

【ボロボロになれている今日も】という言葉は活動休止=公式発表〈フェーズ1完了〉しているMrs,GREEN APPLEというバンドの『僕のこと』の歌詞から取った。

僕は昨日まで「ボロボロに慣れている今日も」だと思っていた。実際は状態としての“なれている”だった。それでもやはり、現代人はボロボロに慣れすぎているような気持ちで聴いていた。



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