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〔映画評〕「見えること/見えないこと」と、信じること

(タルデンヌ兄弟『ある子供』、テリー・ギリアム『ブラザーズ・グリム』、ヴィム・ヴェンダース『ランド・オブ・プレンティ』について)

古谷利裕

映画を観ることの受動性

 映画を観ることはとにかく圧倒的に受動的な視聴覚的体験で、次々と移り変わってゆく映像や音を浴びて、そこから的確に情報を拾い出し、それを頭のなかで構成して、因果関係を察知し、映像と音声の連鎖によって語られる物語を追ってゆかなくてはならない。とはいっても、人はかなりの程度で見るべきもの、聞くべきものをあらかじめ知っていて、実際にはそれほど苦労しなくても物語は頭のなかで自然と組み立てられるし、また、映画作家は、そうなるように映画を組み立てている。

 それにしても、目の前に巨大で鮮明で動いている映像があり、その映像と同期した音声が流されている以上、観客の注意は常にそちらの方に釘付けにされ、その映像と音声の作り出す流れに乗ることが強いられていて、少しでもぼんやりと他のことを考えていたりすると、すぐにその流れからこぼれ落ち、因果関係を見失ってしまう。映画は人に過度に集中を要求する、というか、知らず知らずのうちに、人を集中させてしまう装置であろう。

 映画を観ていて眠くなるというのにはおそらく二種類あって、一つは、映画のつくりだすリズムがゆったりと心地よく、それにつられてつい眠くなってしまうというもので、これは映画の(強いる)流れに乗っていることで眠くなるのだ。もう一つは、映画を構成する映像と音声という情報をもとに、的確に頭のなかで因果関係を組み立てることが出来なくて、頭がついにそれをあきらめ、その映画作品がつくりだす視聴覚的環境を拒否し、眠りの中へと退行してゆくというもので、こちらは映画の(強いる)流れに乗れないことで眠くなる。

 映画は基本的に、それが進行している途中でよそ見をしたり立ち止まったりすることを許さないメディアであるから、とりあえずその流れに一旦身を任せてしまうか、でなければそれを拒否して、眠るか席を立つかするしかない。映画を観ることは、決まった目的地へ決まった速度で向かって行く電車に乗って、その窓の外の風景を眺めているようなもので、自分のペースで、横道に逸れたり休んだりしながら、目的地も決めずに散歩するようなことは許されない。

タルデンヌ兄弟『ある子供』

 これはあくまで原理的なことであり、映画の強制力はあり方は、勿論、個々の作家、それぞれの作品によって異なるだろう。このようなことを書いたのは、タルデンヌ兄弟の新作『ある子供』を観ていて、映画の強制力というものをとても強く感じたからなのだ。この映画は、視覚を極めて狭い範囲に限定することで、観客の視線を的確に誘導する。そのような意味で、良く出来た作品であるとは思う。

 例えば冒頭のシーン。女の子が産んだばかり子供を抱いて階段を昇ってくる。そこは自分が男の子と二人で住んでいる部屋なのだが、帰宅を告げてもドアは開かれない。子供を抱いているので足でドアを叩く。すると、見ず知らずのカップルが顔を出し、この部屋を一時的に借りていると言い、男の子の所在は分からないと言ってドアを閉じる。女の子は、携帯(だったか、その充電器だったか)が必要だと告げ、足でドアを叩く。応答がないので、さらに大きな声で告げ、乱暴にドアを叩く。しばらくしてようやく唐突にドアが開かれ、女の子の要求していた物が床に投げ出される。女の子はあわててそれを拾う。

 このワンカットで撮られたシーンのカメラは人物に極めて近い位置に常にあり、この間に「見る」ことが出来るものは、ほとんど女の子の頭部周辺に限られていて、投げ出された携帯(だか充電器)を拾うアクションの時に、ようやくほんの一瞬全身が写され、しかしすぐにカットは途切れる。

 この間、状況を説明し、映画にリズムや活気を与えているのは、俳優の演技やアクションでも、その場を的確に映し出すカメラでもなく、音なのだ。
この冒頭のシーンのあまりに登場人物の近くに寄り添った手持ちのカメラは、疑似ドキュメンタリータッチによる生々しさを生むためのものというよりも、見せたいものだけを見せるため(そのために観客の視覚を塞ぐために)、余計なものを画面から排除するためにこそ機能しているように思う。登場人物にきわめて近いカメラは、登場人物がそこに居る「風景」や、登場人物の「たたずまい」さえも、観客から見えないものにする。(女の子がはいているスカートの柄さえ、なかなか分からないのだ。)

 そのかわりに、「音」はとても生々しく拾われ、観客は多くの情報を音によって得る(そしてこの映画で拾われる音もまた、求心的な性格をもつ)。そのことで、拡散する視覚が捉える空間のひろがりが塗りつぶされて、映像と音の連鎖が形作る、単線的なリズムのみが強調される。

 このような傾向は、映画が進行するにつれて少しずつ緩やかになってゆき、次第に風景や周囲の空間も「見える」ようになってはゆくのだが、しかしそれもまたきわめて「的確」に選択され、強く統制されていて、映画を観ている側としては、まるで逃げ場の無い狭い路地に追いつめられ、決まった方向へと煽られ、追い立てられているだけだとも、感じてしまう。

 この閉塞感は、そのまま登場人物達が置かれている困難な状況をあらわし、それと観客とを同調させるためのものだと、とりあえず考えることも出来る。観客は、与えられている映像と音声の「制限」による(見えずらいという)縛られた感覚や、映画のかたちづくる単線的なリズムに半ば強制的に乗せられているような息苦しさの感覚(追いつめられて追い立てられる感じ)を、登場人物たちの置かれている閉塞感と混同し、その効果がこの映画にある一定の緊張とリアリティとを生んでいるのは確かだと思う。

 しかしこれはあくまで「混同」させるというマジックによる効果であって、イメージを制限し限定することが、イメージそのものの強さやリアリティをつくりだしているのではないところにどうしても疑問を感じてしまう。

 くり返すが、この映画はある意味ではとても高度な、良く出来た作品だと思う。例えば、生まれた子供を認知するために市役所で書類を書く時の主人公の男性の手の汚れ、や、子供を連れた公園で、水溜まりで靴を濡らし壁に靴跡をつけるシーンの主人公の何とも言えないたたずまい、や、主人公とその仲間の少年が銀行から出て来た中年女性の鞄をひったくった後のアクション、逃亡の末の川の水の表情の生々しさ、など、視覚的な表情として素晴らしいシーンもいくつかあるのだ。

 しかしそれらがあまりに(ミエミエに)効率的に選択され、統制されたものであることが、観客を、やや、しらけさせるように思う。つまりその「良さ」は、観客の視線を強く束縛して、速やかに作者の思惑通りに事を運ぶ段取りの鮮やかさとしての「良さ」であって、それが映画の可能性を広げるものであるとは思えないのだ。

テリー・ギリアムの『ブラザーズ・グリム』

 『ある子供』とはまったく逆に、徹底した視覚の過剰さのみによって自らを支えているような映画が、テリー・ギリアムの『ブラザーズ・グリム』であるように思う。

 目が、今、現に見てしまっているものの強さというのが確実にある。確かに、人は目の前にあるものから、巧妙に自分が見たいものだけを選別して見てしまうという傾向があるし、見ていたつもりが実はまったく見えていなかったと分かることもしばしばあるが、それにしても、「今、現に見えているもの」は、「想像されたイメージ」よりも強く、あるいは、「知覚」は「記憶」よりも強く現れ、人を束縛するのではないだろうか。

 私が今見ている「赤」は、あるいは、その「赤」から受ける感覚は、私の目の前に実際に赤いものがあることによってもたらされ、その「赤」がもたらす強さや精度は、目の前に「赤」がない時にイメージする「赤のイメージ」よりも強くて正確だろう(あるいは、その「赤」があることによって、私は強制的に「赤」という感覚を生じさせられてしまう)。

 あるいは、ある人(他人)の存在は、その人が何を考え、何を感じているかということを感じ、知るよりも、その人の「姿」が「今、現に見えている」ということの強さによって、その確かさ(そこに確かに生きた人がいて、それが自分とは違う人であること)が確信出来る。つまり、「今、現に見えている」ことは、そこに何かが確実に存在することを確信させる(信じさせる)に足りる程の強さをもつ。

 『ブラザーズ・グリム』は、単純にとても楽しい映画で、回想のシーンで流れが滞って、一瞬かったるくなってしまう以外は、目の前に展開される圧倒的な「見えてしまう」ものに魅了されつづけているうちに最後まで連れて行かれる。この映画においては、現実とは切り離されたファンタジー的世界を支えるのは、「お話」が喚起する想像力の動きではなくて、あくまで圧倒的な視覚的作り込みの密度で、とにかく、あり得ない世界でも「見えてしまう」のだからそれを受け入れるしかない、というような、ほとんど暴力的な力であるように感じられる。

 ギリアムには、例えばスピルバーグやティム・バートンやウェス・アンダーソンなどのような強い「作家性」がなく、その作家性の希薄さが、個々のイメージの作り込みをかえって粒立たせているようにさえみえる。この映画はあくまで、お金と技術と多数のスタッフの結集(つまりハリウッドの映画製作体勢)が可能にした集団的な創作物であるように感じられる。勿論そこにはギリアム的なテイストはあるし、そのようなテイストによって制御されていることで、たんに壮大にお金と技術をつぎ込んだだけの、空虚な大作とは別物の、引き締まった映画になっている(『バロン』などに比べても、数段「上手く」出来ているようにみえる)。

 しかしそのテイストには「作家」という存在を感じさせる程の強い制御や独自の統合はなく、強い統制のない分、個々のイメージが独立していわば「気まま」に躍動する感じがある。この映画に集められたそれぞれ個々のイメージそのものは、きわめて凡庸というか、典型的なものばかりではあるが、それらが、これだけの量集められて凝縮され、これだけの精度と密度とで作り込まれると、それは「典型」とは別もの何ものかに変質する。

 退屈なファンタジー的定型は、その圧倒的な視覚的密度によって、想像力を適度に刺激する「お話」としての安定的な魅惑が食い破られ、眼に貼り付き、強制的に眼から入り込んで、暴力的な強引さで何かを動かすような異様に鮮明な(現実以上に鮮明な密度のある)イメージの流れとなる。この映画で起きていることは、おそらくそういうことなのではないだろうか。

 だから、この映画では「今、現に見えていること(聴こえていること)」の充実(視聴覚的な充実)が全てであり、それ以外のもの、つまり、その裏側や、深さ、外へと広がってゆくもの、等は感じられない。それらのイメージは、「今、現に見えていること」の強さによってのみ支えられ、視覚が、存在しているもののリアリティと繋がりをもたないのだから、見えなくなれば消えてしまい、映画が終わればほとんど何も残らない。

ヴィム・ヴェンダース『ランド・オブ・プレンティ』

ヴィム・ヴェンダース『ランド・オブ・プレンティ』は、あまりにも率直で「良識的」な、つまりほとんど「安易」と言っていいような「メッセージ」が語られる映画だ。ヴェンダースがアメリカで生活する以上、著名な映画監督として、自分の「立ち位置」を分かりやすく明確に示す必要があり、それを強いられるような状況がアメリカにある、ということは想像出来るし、このような「良識的」な見解を、強く押し出さなければいられない程に、現在のアメリカがひどい状態になっているのかも知れない。

 ただ勿論、ヴェンダースの映画が「それだけ」のものであるはずはない。他の全てのヴェンダースの映画と同様に、ここには「見ること(見えること)」の様々なあり方が絡み合っていて、その意味でいままで触れて来た二本の映画よりもずっと複雑である。

 「見ること」の様々なあり方は、たんにそのヴァリエーションとして示されるのではなく、見ることと存在することとの繋がりというか、世界のあり様をどのようにして「見る」ことが出来るのか、という探求の過程として示される。

 前述したが、「見えている」ということは、それだけでその見えているものが存在していることを信じさせるに足りる強さをもつ。しかし、映画とは映像であり、映像とはまさに、そこに「無い」ものを見せるものである。映画が、そこには壁しかない場所に「何か」を見えるようにするためには、カメラによってその何かが撮影され、その撮影されたものが壁へと投射されるという「操作」が必要となる。

 ヴェンダースにとって、このような「見える」ための操作(媒介)が常に問題となる。だから、肉眼だけでは見えないもの(聴こえないこと)を、見えるように(聴こえるように)するための様々な装置が登場するのだ(双眼鏡や無線機から、監視カメラ、盗聴マイク、デジカメ、インターネット)。

 ヴェンダースは、見えるものを制限することで観客を速やかに誘導するようなことはせず、逆に、見えることの強さによって観客をねじ伏せようともせず、様々な装置によって見える(聴こえる)ようになったものを複雑に絡み合わせることによって一本のフィルムを重層的に織り上げようとする。

 人はもはや、素朴に「見る」だけでは(見ることが出来る範囲のものを「見る」だけでは)、存在するもの(世界のあり様)を確信することが出来なくなっている。そのことのあらわれの一つとして、登場人物は、自分の行動をいちいちテープに録音しなければいられないし、自分の見たものをいちいちカメラに納めないと気が済まない。

 見ることはそれだけでは世界がそのように存在することの確信へは繋がらず、それが自分とは切り離された別の装置によって何度も再生されうるという保証によってはじめて、その存在のあり様が辛うじて信じられるのだ。
そして、そのような再生装置によって、見えるもの(映像)が、その見えたものの存在と切り離されることは、一方で、見えるもの(映像)を、そこにはいない遠くの他者へと送り、その他者のいる場所とは別の世界を「見せる(知らせる)」ことを可能にする。しかしそれはもう一方で、見る側と見られる側との距離を大きく広げ、隔てることにもなるだろう。

 イスラエルからアメリカへとやって来た少女が、自分が目の当たりにしたロサンゼルスの貧困の様子をデジカメの動画モードで撮影する時、その行為は、自分の見たものをイスラエルにいる友人に「送る」ためのものであり、そして少女は同様に、イスラエルから「送られた」映像をインターネットを通じて「見る」ことが出来る。

 一方、孤独な中年男性が、テロリストだと思い込んでいるアラブ人を監視し、その映像を(非情に古くさい、旧式の)監視カメラで撮影する時、その映像はどこにも送られず、ただそれを撮影した男性のもとに留まり、自らが見たものの確認のためにのみ使用される。それは孤独である男性の不安の産物であり、そしてその不安の産物が新たな不安(妄想)へと自己増殖するだけで、それが世界を「見る(知る)」ことや他者(例えば見られる対象であるアラブ人)との交通へと繋がることはない(男性の孤独=周囲からの断絶は、彼が使用しているテクノロジーが旧式であることによっても表現される)。

 この男性の孤独をやわらかく受け止め、認識や交通へと開くのは、この映画では(天使的でもあり、母親的でもある)「少女」の存在であり、その少女によって「届け」られた、男の妹からの(遅れて来た)「手紙」という旧式のメディア(言葉)である。

 様々な操作を経た多様な「見ること」を織り上げてゆくヴェンダースは、しかし、最後には「言葉」への信頼へと着地していく。

初出 「映画芸術」413号 2005年

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