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セザンヌと村上隆とを同時に観ること

古谷利裕

*以下のテキストは、2002年に「批評空間Web CRITIQUE」に発表されたものです。

セザンヌと村上隆とを…

 村上隆の「DOB」シリーズの最も完成度の高い作品、例えば2001年に制作された『Melting DOB D』や『Melting DOB E』といった作品を観た時に、セザンヌやマティス、あるいはゴーキーやポロックといった画家の作品と共通する「感覚」を感じないとしたら、その人は絵画を「形式的」に観る能力に欠けているのだと思う。村上氏がそのことをどこまで意識しているのかは知らないが、これらの作品はたんにパロディとか観照とかを超えて「近代絵画」的に相当高度な作品だと思う。

*『Melting DOB D』
http://www.artnet.com/artists/takashi-murakami/melting-dob-d-a-cbCbARHBcNimie6Eb9JOLQ2
『Melting DOB E』
https://famous.nl/product/melting-dob-e/

虚の透明性

 このことを分り易く説明する時に有効なのが、コーリン・ロウによる「虚の透明性」と言う概念だろう。透明性とは《二つまたはそれ以上の像が重なり合い共通部分をゆずらないと、 見る人は隠れた部分の視覚上の存在を仮定せざるをえない。 このとき像に透明性が付与され、 像は互いに視覚上の矛盾や断絶なく相互貫入する》(ジョージ・ケベシュ)ということであり、もっと言えば空間的に共存しえないような次元の異なる二つ以上のものが、同時に知覚できるという状態のことだ。

 コーリン・ロウは有名な『透明性・虚と実』において、透明性を、実の(リテラルな)透明性と虚の(フェノメナルな)透明性に分けている。実の透明性とは、そのような状態をガラスなどの実際に透明な物質を用いてダブル・イメージのように実現させることであり、虚の透明性は、物理的な透明性とは別の、まさに「次元の異なる二つ以上のものか同時に知覚」されるような独自の構造が実現された時にだけ、あらわれるもののことだ。

 それを強引に解釈し直すとすれば、実の透明性とは、形態(図)の重ね合わせによって得られる透明性であって、それは図の複数性(いわば「多義性」)をもたらすのだが、虚の透明性は、図を浮かび上がらせることを可能にする地、ある意味を発生させるための場、コンテクストなど、表現の基底となるものの複数性によって得られる(だからここであらわれるのは「決定不可能性」だし、複数に分裂した基底の絶えざる入れ替わり、あるいは闘争でもある)、と言えるだろう。

 さらに強引な解釈をつづければ、虚の透明性とは、不透明による透明性のようなもので、それは決して全体を一望のもとに眺めることが出来ない、いわば複雑な迷路に迷い込んだような状態で、一つ角を曲がる度に風景が一変してしまい、その度に今まで見てきたもの全てを解釈し直さなければならなくなる、という状態に似ている。

 例えば、セザンヌの絵画においては、静止した画面を、自らも静止したままその正面から眺めているだけなのにも関わらず、ちょっとした視線の動きや、注目している範囲の移動だけで、事物や色彩が置かれている秩序そのものが、つまり基底的な空間そのものが、ググッと動いてゆくのを感じることができるのだ。

 この、基底的なものが動いてしまう、動きながらいつの間にか別の地平へと変わってしまう、つまり複数の基底が互いに排除しあいながら共存している、という感覚が理解できない人には、セザンヌやマティスに代表されるような近代絵画の様式というものが、たんに視覚的な様式の変化、つまり交換可能な新たな意匠への移り変わりの一つのようなものにしか見えないだろう。

Melting DOB D

 村上隆の『Melting DOB D』を観てみる。この作品は大きく3つのブロックに分かれ、それぞれがDOBくんと呼ばれているキャラクターの顔の歪んだ像になっている。しかし、ただ3つの大きなキャラクターの顔が画面のなかで独自のバランスで歪みを加えられて配置してあるだけなら、幼児的なキャラクターがアンバランスに歪んでいることから精神的な危うさを表象しているというような、今どきのありがちなデザインにすぎないだろう(奈良美智やホンマタカシの子供の写真など)。

 ここでは、「一つのブロック=一つの大きな顔」というカタマリのなかに、その大きな顔のものとは別に、目、鼻の穴、口、睫毛、といった、顔を構成するパーツが無数に、様々な大きさ、様々な方向、様々な歪み方で、バラバラに散らばって配置されている。

 絵を観ている我々には、まず3つの大きなブロック=3つの大きな顔が目の入ってくるのだが、しかしすぐに、そのなかには隠された(実はちっとも隠されてなどいないのだが)無数の小さな顔があることに気付く。まあ、ここまでだったら、ダマシ絵だとか隠し絵だとかが、高度に複雑化されたものだということにしかならない。

 だが、ダマシ絵においては、表面に顕在化されているイメージと、その裏側に隠されているイメージという2つの層があって、その2つの層が安定した構造(つまり、表/裏という構造)に納まっている訳だが、この作品においてはそのように明確に表と裏の区別がなくて、全て同一平面に同等に並んで曝されている。

 つまり表と裏は非常にルーズに重なりながら切れ目なく繋がっていて、パッと目に入ってくる大きな顔=表を見ているうちに、いつの間にかその中にある様々な散乱した無数の小さな顔=裏の方へと注目が滑っていってしまい(だからそれを表/裏と言うことは本当は適当ではないのだが)、スルスルと視線が移動してゆき、その度に、そこに新たな顔(無数の小さな顔)が新たな空間とともに出現することになるのだ(そしてまた、いつの間にか大きな顔の方へ戻ってくる)。

 ここでは、複数の異なる次元がルーズに重なり合って繋がっているのだが、それでも次元の違いというのは明確に構築されていて、だから一つの大きな顔のなかにたくさんの目が描き込まれていても、「たくさんの目をもつ顔」という風には見えなくて、ある一つの顔を見ている時には、他の顔を構成している「目」や「口」は、見えてはいるのだけど「意味」は構成されないようになっている(つまり、ある一つの「顔」を認識している時は、別の顔は「顔」としては見えなくなっている)。

 ここでは、どこまでもノッペリと表面的でありながら、同時に複数の異なる次元が成立しており、しかも異なる次元同士がルーズに重なって繋がっているのだから、我々の視線は絵を見ている限り常に動きつづけざるを得ないし、視線が動いている限りは(視線が動く度に)、空間を形づくっている「基底」そのものが小刻みに変化し、不安定に揺れ動きつづけざるを得ない。
もし、近代絵画的な、「同一平面上の複数の次元」ということを理解しない人がこのような絵を描いたら、たんに目がたくさんある顔に見えるか、そうでなければ、目は「目」に見えず、顔にたくさんの発疹ができているようにしか見えないだろう。つまりこの作品は、非常に高度な近代絵画的な目によって制御されて描かれていると言えるのだ。

(ほとんど同じような絵柄でも、例えばあまり上手くいっていない『たんたん坊』のような作品は、基底的な空間が固定してしまっているから、つまり「ひとつの安定した空間の構造」が出来上がってしまっているから、そのなかでどんなに複雑なことがなされようと、それはたんに丁寧に描き込まれたマンガのような絵にしかならないのだ。)

「顔」の特異性

 この作品がとりわけ上手くいっているのは、これが「顔」を素材にしたものだからだろうと思う。人間の認識は、「顔」に対してとても敏感に反応するようにできている。抽象的な形態や色彩やテクスチャーだけで、同等の効果をつくるのはとても困難だろう。

 例えば、心霊写真などというものがあって、人は、ただの影や汚れにすぎないものに、「顔」という「意味」を発見したりしてしまうのだ。そのくらい、「顔」に関する認識は「食い付き」がいいのだろう。まあ、心霊写真の場合は、汚れだか何だか分らないノイズのようなものに、「顔」という意味を付与して、意味を固着させ、固定化してしまう訳だけど、この作品の場合はむしろ逆で、顔という食い付きのいい要素を利用して視線を引っ掛からせて、しかしそこで顔=キャラクターという意味を固着させることなく解体して、意味が生成したり解けたりする「動き」こそをつくろうとしている訳なのだ。

 つまりここで村上隆は、DOBくんというキャラを利用して、人が物事や像をキャラ化して捉えてしまうような認識のあり方を解体=批判しようとしていると言えるだろう。

 『Melting DOB D』を構成する「顔」たちは皆大きく歪んでいるのだが、それはたんに四角いフレームのなかでの視覚的なバランスをとるための歪みではないし、オタク的な「萌え」を誘発させるための「萌え要素」としての歪みでもないだろう。

 それは、それ自体はのっぺりした、全てを表面に曝した「平面」でありながら、我々がそれを「見る」とき、一目で全体を見渡すことの出来ない、複数の異なる次元が視線の移動によって明滅してゆくような、時間を含んだ「平面」をつくるために必要とされる歪みであって、それはセザンヌの絵画における歪みと同等なものなのだ。

セザンヌを観る

 例えばセザンヌの『キューピットの石膏像のある静物』を観てみる。
この作品の空間は、大きく捻れながら画面の奥がせり上がってくるように歪んでいて、その空間の歪みにあわせ、個々の事物の形態にも複雑な歪みが見られる。普通、このような空間の歪みは、遠近方的な空間の表象よりも、平面上での視覚的なコンポジションを優先させるためだと説明されるのだが、おそらくそれは間違っている(セザンヌは、視覚的な配置としての「構図」などにはほとんど興味はないはずなのだ。それはセザンヌのエスキースがほとんどフレームを問題にしていないことからも分ると思う)。

 この絵の空間が歪んでいるように見えるとしたら、それは画面全体を一挙に、一つのパースペクティブによって見てしまおうとするからなのだ。しかし実はこの絵は、全体を一挙に観ることは出来ないように描かれている(無理矢理、全体を一挙に見ようとするならば、「絵具のこびりついたカンバス」という物質として見るしかない。勿論、この絵にはそういう次元もある訳だ)。

 我々の視線は、ある時は、描かれたある事物ともう一つの事物との対応関係を見ていたり、またある時は画面のなかをリズミカルに動きまわる筆致の動きを追っていたり、ある時は白から緑、緑から黄色、黄色から赤へと微妙なニュアンスで変化してゆく色彩の震動を感じていたりするというような、視線の「動き」として、部分と部分、要素と要素を動きながら繋いでゆく、見るという行為の「持続」によって、この絵を捉えてゆくしかないのだ。
画面上に描かれた事物を図像としてリテラルに追おうとしても、その視線は決して素直にスムースの動くことはできない。例えば、画面の中央を垂直に貫いている白いキューピットの像を感じながらも、視線は決して上から下、下から上へとキユーピット像の輪郭に沿ってすんなりと移動することはなく、キユーピットの顔とその背景の壁との関係、キユーピットの腹の丸さと、背後にある林檎の丸さのと関係、キユーピットの像を支える台座の形とその脇にあるタマネギの形との類似性、などに視線は引っ掛かり、さらにそこから別の場所へとズレこんでゆき、あるいはそこから色彩や筆致の次元へと、視線は次々と逸脱してゆき、画面のなかを目が彷徨いつづけることになる。

 セザンヌの絵画では、このような視線の異なる次元への移動は決してスムースには行われず、まるで無計画に増築に増築を重ねた建築物(永井豪の『キッカイくん』の家のような)のなかを移動しているかのように、動いてゆく度にギシギシとしたノイズを産み、今にも崩壊寸前でギリギリ留まっているかのような感じなのだ(セザンヌの絵画は、不器用ではあっても決して「静謐」でも「堅牢」でもなく、きわめてノイジーだ)。

 あえて言えば、セザンヌの絵画の「意味」とは、この震えるような「きしみ」にこそあるとさえ言える。この絵は、複雑なカメラの動きを伴って移動撮影された長回しのショットが、一枚の静止した平面上に強引に圧縮されたようなものとしてあるのだ。

 もし、このような絵の「画面全体」というものがあるとすれば、時間をかけて画面のなかを彷徨った視線によって、その都度構成された様々な感覚やノイズの折り重なりとして、その厚みとして、頭のなかに(四次元的に?)「構想」されるだけだと言えるだろう。つまり「画面全体」は、時間・空間という形式の外にしかあり得ない。だから「芸術による経験」とは、生きられた身体による「体感」のようなものとは全く違うなにものかなのだ。

結び

 あらゆる要素が隠されることなく表面に曝されている平面でありながら、複雑に折り重なる複数の異なる次元がひしめき合っていることから、決して視覚によってその全体を一気に把握することができない平面。つまり「スーパーフラット」というコンセプトは新しくもなければ古くもない。それは「近代絵画」の基本的な要素の一つであるのだ。

 勿論、セザンヌと村上隆が、全く異なっている作家だということは知っている。なにも、セザンヌという歴史的なビックネームとの類似を示すことで、村上隆を正当化しようというのではないし、逆に、村上隆という「人気者」を利用してセザンヌについて啓蒙しようというのでもない。セザンヌと村上隆という、個体の著しい差異にも関わらず、そこに共通してあらわれる「絵画」というメディアの普遍性みたいなものを示そうというのでもない。
ただ、目の前に提示されてる作品やイメージというものを、丁寧に見て、それを記述し分析することが、現在の「美術」を巡る言説のなかにあまりに欠けているから、それが必要なのだと言いたいのだ。それがなければ、批評はただの知的な饒舌にすぎなくなってしまうし、作品はただ、故人やその時代の「好み」や「気分」や「感情」を代弁するもの、というだけのものになってしまう。

初出 「批評空間Web CRITIQUE」 2002年

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