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〔美術評〕熊谷守一の二つの展覧会について

古谷利裕

*以下は、2017年12月1日~2018年3月21日に東京国立近代美術館で行われた「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」展、2016年5月20日~6月26日に熊谷守一美術館で行われた「熊谷守一美術館 31周年展」についてのレビューです。

「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」展 東京国立近代美術館

https://www.momat.go.jp/archives//am/exhibition/kumagai-morikazu/index.htm

 戦後アメリカの画家、マーク・ロスコやバーネット・ニューマンの壁のように大きな絵を前にしたり、マティスの大作を前にした時、私たちは色彩に包み込まれるような経験をします。しかし熊谷守一の絵はどれも小さいので、穴や小窓を覗きこむように、色彩を覗きこむような感じになります。
 
 障子に空いた穴がたとえ小さくても、それを覗くと向こう側の広がりが見えるように、飛行機の小窓から広大な大地が見えるように、その小さな絵は、覗き込むことによって小ささと大きさが反転し、色彩が無限定ともいえる広がりをもつように感じます。
 でもそれは、小さな絵に大きなスケールが表現されているというより、大きいとか小さいとかいうスケール感が無化される、スケール感の底が抜けるという感じに近いと思われます。

 熊谷の絵では、山々の連なる広大な風景が描かれる時も、蟻や蝶のような小さな昆虫が描かれる時も、ほぼ同じようなサイズの画面が選ばれます。山々も蟻も、同じようにコンパクトな画面で、同じように無限定なスケールをもつのです。

 七十歳を過ぎた画家が到達した、平坦に塗られた色彩、大胆に変形された形態、そして色彩を区切るくっきりとした輪郭線などを特徴とする作風は、小さなものにも大きなものにも等しく、自然のもつ底なしの広がりが宿っていることを表すことに成功していると思います。

 それは、とりとめなく広がる色彩が、卓越した造形力が捉える輪郭線で辛うじて、描かれる対象に繋ぎとめられることによって実現しています。例えば、熊谷の描く猫には、まさに猫そのものといった表情が巧みに掴まれています。しかしそれは、少し見方を変えるだけで、無限定に広がる色彩や、生き生きと動きまわる不思議な形態へと分解されてしまうかのようです。

 対象を一まとまりのものとして掴む凝縮力(描写力)と、画面全体として色と形を生き生きと動かす力が拮抗することで、猫への親しみと、その向こうにある自然の底のなさが同時に捉えられるのだと考えます。

 暗い井戸を覗きこみ、その闇にきらめく妖しい光を追究しているかのような初期作品から、自然の無限定さへと突き抜ける晩年の作品まで、画家の試行錯誤を追体験できる程に、質、量とも充実した展示だと言えます。

(初出 東京新聞2018年2月16日 夕刊)

熊谷守一美術館 31周年展

 熊谷守一の絵には、目を瞑ることによってはじめて現れるようなイメージが描き込まれているのではないだろうか。その色や形は、日の光とは異なる別の何かによって浮かび上がっているようだ。実際、昼間には絵を描かず、夜間に電球の光の下で制作したという。

 画家は、五二歳で建てた家に九七歳で亡くなるまで住んだ。昼間は、植物が鬱蒼と茂る家の庭で腹這いになって草や虫などを観察し、太陽が姿を隠す夜になってから、室内でそれらの姿を描いた。目の前で生きて動いているものではなく、目の前からいったん去ったものの気配や残り香こそがモチーフだったのではないだろうか。

 昼間のうちに知覚によってとらえられたものが、知覚が遮断される夜のなかで、現実的な空間や光源から切り離されて、ただ感覚として浮かび上がるのを待つ。太陽の光を反射することで見える色や形ではなく、存在そのものが放つ光によって見えるものを描くために。

 画家の仕事は見えないものを見えるようにすることだと考えていたのではないか。二十歳代の熊谷守一は、ロウソクの弱い光で浮かび上がる自画像や、月光に照らされる轢死体を描いた。明快な強い光ではなく、不安定なか弱い光こそが妖気を照らし出す、と。「某婦人像」では、弱い光のなかから艶めかしさがぬっと飛び出してくるようだ。

 晩年には、弱い光に取って代わり、明確な輪郭線とフラットな色彩が現れる。この時、色が光源と空間の秩序から自律する。色彩は、空間や対象から解放されて感覚(妖気や艶めかしさといったもの)の強さや質の表現に奉仕するものになる。
 しかし色彩は、明確に仕切られた輪郭線により、辛うじて現実の空間や対象と結びつけられてもいる。それにより、対象や空間が、描写としてではなく感覚として現れるような作品となる。

 熊谷守一の作品はサイズが小さい。しかしじっくり観ようとすると、深い井戸を覗き込む時のような眩暈を感じるスケール感がある。色彩は、輪郭線によって辛うじて空間と結びつけけられているので、近寄ってある色彩だけを見つめると、空間が裏返って底が抜けたような広がりが生じるのだ。
 例えば「桜」の、枝にとまるウソという小鳥の背中の紫から、どこまでも広がる空のようなスケールを感じる。

(初出 東京新聞2016年6月3日 夕刊)


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