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虚構の人物と「作者」/吉田健一『瓦礫の中』と松浦寿輝『あやめ』
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虚構の人物と「作者」/吉田健一『瓦礫の中』と松浦寿輝『あやめ』

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古谷利裕

1.「話者」を乗り越えてキャラクター化される「作者」
 『瓦礫の中』の冒頭は、このようなタイトルがつけられた(題材が選ばれた)由来から語りだされ、第二次大戦末期の東京の空襲の様子や、空襲によって焼け野原となった風景、防空壕の説明などを、思い出を語るようでもあり、その様子を知らぬものに説明するようでもある調子で記述している。ここで語っているのは、三人称の小説の話者というよりも、エッセイを書いている「作者」その人であるかのようだ。そのようにして読者を作者による「語り」の世界にゆるやかに引き込んでゆく記述は、ある地点で、ふと、まるで事のついでのように《ここで人間を出さなければならなくなる》と宣言し、寅三、まり子、伝右衛門、と、次々と登場人物の名前をぶっきらぼうに挙げ、しかもその名前は《何となく頭に浮かんだに過ぎない》と告げられる。そしてこの後いきなり、防空壕から外に出て、まわりの焼け野原を見渡す主人公、寅三が描出される。つまり、作者による思い出話に、唐突に虚構の人物が、この話を語っている(書いている)今、たまたま頭に浮かんだのが原因であるかのように出現する。
 一応、三人称多元という視点から書かれていると言ってよいと思われるとはいえこの小説の語りは、常に語り手の存在を意識させ、語り手と登場人物との一定の距離が保たれるように記述されている。しかし同時に、この語り手は、いつも寅三に近い位置にいるようにも感じられる。つまり寅三が主人公だというわけなのだが、たんにそれだけのことでもない。
 例えば、話者は、寅三の内面に立ち入るだけでなく、時に、まり子や伝右衛門の内面にも入り込むという意味では、どの人物も話者の手のうちにあるのだが、一方、話者が語る地の文でも、伝右衛門は、寅三がそう呼ぶのと同じように「伝右衛門さん」と「さんづけ」で呼ばれたりする。三人称のように見えて、実は話者は寅三を中心として他の人物との距離を計っているのだ。素朴に読むならば、この小説は、物語として語られる時間よりもずっと後になってから、(年をとった)主人公の寅三によって語られる「思い出話」のような口調であるように感じられる(この小説は1970年に書かれている)。しかし前述した通り、寅三とは、「何となく頭に浮かんだに過ぎない」人物として唐突に、たんに「寅三」という名前としてだけ小説に現れた人物で、この名前が最初に書かれた時点では、その人物設定も《出来ている訳ではない》とされる。《これから誰か出て来る毎にこれにその名前のどれかを付けて、名前が多過ぎるか足りなくなるかすればもっと名前を考えるか、或は話の筋を変えるまでである。》
 そうはいっても、この言葉を作者のナマの声として信じてしまうのは素朴過ぎる読み方ではあろう。しかし、このような人物の登場のさせ方を、たんに技術(芸)のようなものとして受け取ってよいのだろうか。
 この小説の冒頭に、「作者」が日本の占領時代を題材を選んだ理由として、《今では日本にこんな時代があったことを知っているものが少なくて自然何かと説明が必要になり、それをやればやる程話が長くなって経済的その他の理由からその方がこっちにとって好都合だからである》と記述されていた。つまり、作者(こっち)にとって、説明を多用することで原稿の枚数(原稿料)を稼いでも、その言い訳がたつから都合が良い、ということだ。勿論、ここでの「作者(こっち)」のぶっちゃけた告白を、実際の作者(吉田健一)の本音だとみるのもあまりに素朴だと言える。このような記述は、話者=作者であるかのような虚構の話者をたちあげるための技巧だとみることもできるだろう。しかし、このぶっちゃけた話が、たんなる技巧、話者=作者として、魅力的なキャラクターの話者をたちあげるためだけに導入されたものだとみることもまた、正確ではないように思う。
 つまり、このようなぶっちゃけ話が、いかにも作者(既に「有名人」である吉田健一)が言いそうなことだという共通の了解が読者たちのなかで出来上がっているからこそ、このような技巧が可能なのではないだろうか。そしてまた、そのような共通の了解が(吉田健一の実際の知り合いもそのなかに多く含まれるであろう「読者」たちの間で)成り立つということは、このぶっちゃけ話には(このような語り方には)、それなりの信憑性や説得力もあるということであろう。つまり、このぶっちゃけ話は限りなく作者(吉田健一)のナマの声に近いものであるかのように「多くの人には感じられ」、であるからこそ、これが「ナマの声であるかのようなもの」という技巧として成立し得る。
 吉田健一という作者の名前が、読書人の間で既に有名であり、著述家としてのキャラクター(イメージ)も理解され、共有されている時、このようなぶっちゃけ話から小説を始めることは、楽屋裏を示すことで作者と読者の間を近づける効果があると言える。まるで吉田健一が自分に向かって直接語りかけているかのような近しさを(ある「共犯的な感覚を)、その記述の仕方から読者は受け取るだろう。その時、『瓦礫の中』における話者のキャラクターはそのまま、小説家であるだけでなく、エッセイストであり、首相を経験した政治家の息子であり、教養人でもある「吉田健一」という実在する著述家の(といううか、実はそのようなキャラの)「ナマの声」であるかのように、読者に響く。つまりこの小説を読む読者は、虚構世界に入り込むというより、「有名な著述家が物語を語っている様」を読んでいるという感じが強くなる。

2.「書く人」の身体、「書くこと」という身体の今、キャラではなく身体=記憶・脳へ
 有名な著述家が、過去を思い出し、それに説明を加えつつ語る。その語り口は、虚構をたちあげる小説の話者のものというよりも、その作者自身のキャラクターを強く感じさせるものだ、とする。そして、その思い出話のなかに、いつの間にか虚構の人物が混ざり込み、それが動いてゆく。吉田健一が『瓦礫の中』と題された文章を「小説」として書く理由は、虚構の人物を媒介として、自らの記憶を記述しようとしている、ということを意味するだろう。そのような文章を読む時、そこで語られる過去の様子は、そのまま作者=話者の思い出であると受け取られるのと同時に、吉田健一の脳内の記憶こそが、小説の登場人物が生きている世界(虚構の舞台)を構成する基底であるようにも受け取られる。
 作者が実際に経験したり見聞きしたものの記憶が、そのまま登場人物が動いている世界の基盤となっている(かのように読まれる)。このような語りの感触は、作者が自分の経験をもとにして、それに忠実に作品世界を作り上げている(設定している)、ということとはかなり違ったものになる。
登場人物のキャラクターよりも、話者=作者のキャラクターの方が常に強く感じられるような語りのなかで動いている登場人物たちは、虚構の世界の、(ある設定されたフレームの内部でたちあがる)人物であるというより、作者の記憶という地の上であらわれる(影のように薄い)図としてあると言える。この時、小説の記述の説得力を支えるのは、虚構の世界のもつ(まるで実在するかのような)リアルさでも、作品世界として設定される世界観の厚みでもなく、作品の背景(を地として)支える「記憶」をもつ吉田健一という人物(書く身体、それを支える脳)の存在の厚みへの信頼感ということになろう。
 現実の世界を舞台に、実際に自分が経験した話が語られるノンフィクションであっても、それが語られる時、「書かれた文」からは、作者そのものから切り離された「話者」という媒介が生じ、虚構という次元がたちあがるだろう。虚構には虚構としてのフレームがあり、自律した動きがあり、「お約束」があり、紋切り型がある。しかし『瓦礫の中』では、話者が作者と切り離されないので、虚構の登場人物の存在を支えるのはフィクションのフレームではなく、吉田健一という実在する(実在した)固有の人物であり、文の連なりから滲み出してくるその感触ということになる。
 例えば、人が、無名の、何のロイヤリティもない人物の書いた雑文よりも、既に有名な人、ある肩書きをもつ人、過去に自分の好きな作品を書いた人、あるいは、個人的に知り合いである人など、そういう「人として知っている」人の書くエッセイの方を、内容的にはたいして変わり映えしなかったとしても、好むのだとすれば、その言葉の根拠として、実在する人間の身体や記憶がその裏に貼りついていると想定できるからであろう。このような意味での作者としての吉田源一とは、社会的な存在であり、流通し、共有されたイメージとしてのそれであろう。『瓦礫の中』の作者は、既に「吉田健一」という人物が実在することが広く知られていることを利用して(言い換えればそれは読書人たちという「内輪」に向けて、ということでもある)、作者=話者であるかのように書き始めて、つまり虚構を立ち上げる段取りを踏むことなく、いきなり虚構の人物をたちあげようとする。
 例えば、次のような部分。

まり子は食べながら昔はどこそこのパンが旨かったなどとは考えなかった。これは自分が作ったパンの手前ではなくて他にパンがなければ仕方ないからであり、闇市ではアメリカ軍用の白いパンも買えたが、これは甘くて食べられたものではなかった。つまり、ないということで、そうなるとまり子の関心は自分が作るパンの出来栄えに向けられ、確かにそれがそう悪くはないことは寅三が食べる量でも解った。
(『瓦礫の中』)

 通常に小説を読む時、引用部分の「闇市ではアメリカ軍用の白いパンも買えたが」という箇所は、小説内の世界の説明的記述として読むし、「これは甘くて食べられたものではなかった」は、登場人物であるまり子か寅三の意見(あるいはもっと一般的な評判)であるように読むと思われるのだが、『瓦礫の中』を冒頭からずっと読んでここにたどり着いた者には、「闇市ではアメリカ軍用の白いパンも買えたが、これは甘くて食べられたものではなかった」という箇所全体が、ほとんどそのまま、作者の思い出であり、吉田健一の意見であるかのように読めてしまう。
 そして何より重要なのは、この部分の記憶が、まり子がパンを食べるシーンを書くことによって、これを書きつつある現在に、作者=話者の実在する身体へと到来したかのように読めるということだと思う。書かれている事柄は過去のことであり、過去を舞台に虚構の人物が動いているのだが、その人物を動かしているのは書きつつある現在にいる作者=話者であり、しかも、まるで書きながらの思いつきによって人物が動いているように書かれているので、ここで記述される過去(記憶)は、今、「書いている」ことで思い出されているという現在性を強く意識させる。そしてここでの現在とは、この文の連なりを書いている、実在する作者に訪れている「現在」であるという意味で、作者の身体(記憶、脳)が強く浮上してくるように思える。
 さらに次のような部分。

寅三は自分が生まれて今まで住んで来た土地が全く違った新しい場所に変わったような感じがした。その前からあって自分が始めて来たのだというのでもなくて、更に自分がいつもいる所がもと通りでどこか他所に、例えば外国に行くのならはその比較で新しさとその反対と言う意味での古さの釣り合いが取れるものであるが、これはそこに就いて自分が知っていた一切を吹き消して別なものになったのであり、それをもとの場所と言えるかどうかも多分に疑問の余地があった。そしてこれは牢屋にぶち込まれたなどというのでもなくて気持ちがよくて静かなのは昔の東京と変わらず、そこで思い出が少しばかり甦って東部軍管区情報などというものに頭を使う必要もなくなり、使いたくてももうそんなものは聞けなかった。その晴れた朝その頃既に言われ始めていたように戦争中の記憶は暗かっただろうか。それよりもそんなものは綺麗さっぱりどこかへ行ってしまっていて、偶に思い出すのはもう用がないことだけに一層せいせいした。
(『瓦礫の中』)

 この部分は、エッセイのように書き出されるこの小説で、《ここで人間を出さなければならなくなる》と書かれて人の名前がいくつか挙げられたそのすぐ後に、最初に具体的な姿をもって登場した寅三という人物が、その、まだ生まれたてほやほやの状態でする(焼け野原を見ながらの)最初の内省と言える場面だ。ここは完全に、寅三という虚構の登場人物の内省として書かれているのだが、これまで、話者=作者であることを強く印象づけるような語りによって書かれてきた終戦時の記述を読み進めてきた読者は、その語りとまったく変わる事のない文体とリズムで書かれる寅三の内省を読むことになるので、ほとんどそのまま、(吉田健一という名をもつ)作者=話者が終戦後の焼け跡を見た時に感じた思いであり、そして今これを書きながら、それを思い出しているような印象を抱いてしまうだろう。
 このような直接的な感触は、例えば私小説のように、寅三が作者自身をモデルとして造形された作中人物である(あるいは、作者=主人公であるかのような一人称で書かれている)、ということによって生じるものとはかなり異なる。作者=登場人物であるから、寅三の考えや感じ方が作者のものと同じだというのではなく、その「語り」が常に実在する作者=話者の存在を強く想起させるものであり、だから、登場人物がそのように存在するのも作者=話者が彼らのことをそのように考え、そのように書いているからであることが常に意識される(登場人物の根拠としての「作者の身体」が常に意識される)ような語りの感触がそうさせるのだ。ここで、作者=話者と、いかにも作り物めいた「薄い」登場人物とを通低させているのは、その文章の進行を揺るぎなく律する、特異なリズム感であるように思われる。
 『瓦礫の中』のような小説作品を読む時にまず惹かれるのは、その文章の風通しの良さのようなものであると思う。それは、あらかじめ定められたフレームのなかでフィクションを起動させるのではなく、今、読みつつある部分を読む事によって、あるいは、今、読みつつある部分から、その次の部分へと、次々と移ろってゆくという流れのなかにいることによって、その都度浮かび上がって来るものの強さに賭けられているということだろう。この小説では常に語り手の存在が強く意識されるように書かれているし、登場人物は、語り手の頭のなかで作られ、語り手によって動かされているのだ、と常に意識されるように書かれている。だか、この小説では、そのような操作が、「これは小説である」というようなジャンルや形式に関する自己言及的な意識を読者にもたらすのではなく、むしろ「語り」そのもののあり様が(語る人の存在の)生々しさを生み出しているように思われる。

3.行為とリズムの同一性と、それによる外的変化に対する「私=記憶」の安定
 『瓦礫の中』は、戦後の焼け野原になった東京で、家がないので防空壕で暮らす寅三や伝右衛門の話から始まるのだが、そんな特異な状況であっても、彼らは、吉田健一の他の小説の登場人物と何もかわらずに、何か旨そうなもの見つけ出してはそれを食い、酒を飲み、高邁ではあってもあくまでお気楽な話をしたりして過ごしている。(旨そうなものを探すというより、まずいものしかないとしたら、それを「まずいもの」として、そのようなものとしてしっかりと認識しつつ、食っているのだが。)
 吉田健一の書く文章の魅力の多くが、その分厚い教養に裏打ちされることで可能になるある種の余裕にあり、高踏的で趣味的な享楽性にあることは確かだろう。『東京の昔』で語られるような「昔」の多くが消失して別物になってしまった東京の焼け野原を前にし、生活が大きく変化したにもかかわらず、登場人物たちが揺らぐ事なくすみやかに状況を受け入れているようにみえるのは、実生活の大きな変化の裏側にある、分厚い教養によって支えられた連続性が働いているからだろう。
 いや、ことさら教養など持ち出さなくても、『東京の昔』の「昔」であろうと、空襲によってその多くが失われた終戦直後の焼け野原だろうと、復興によって「昔」とは全く別の東京になった後であろうと、彼らは同じように、食い、飲み、話しているからこそ、その同一の行為がいつも反復することによる連続性によって、同じような人物として安定しているのだというべきだろうか。そしてそれを語る文章のリズムも揺るぎなく一定であることが、その反復に根拠と説得力とを与えるだろう。
 この、文章のリズムの揺るぎなさは、一方で、その文章を読む者に、内容や登場人物たちの差異よりも、常に「吉田健一を読んでいる」という感触を強く抱かせるだけの密度と肌触りをもつ。『瓦礫の中』において、その世界を支えているのが実在する人としての作者=話者の身体であると言うとき、その身体の実在性を(実際に会ったことがあるわけでもない)読者に感じさせるのは、この文章のリズムの特異な揺るぎなさでもあり、彼が描く登場人物たちの行動や考えの揺るぎなさなのだ。
 しかしこのリズムや行為の揺るぎなさは、たんに安定のみを感じさせるものではなく、むしろ、不安定さに常に晒されているからこそ、必死で要請され、形作られるような安定性であるような、独自の屈折をもつように思われる。特に『瓦礫の中』は、まさにそのすべてが失われた焼野原の中での生活から語り出されるだけになおさら、それを強く感じる。

4.「思い出す」「思いつく」ための媒介として機能する虚構的人物
 次に長めの引用をするのは、小説の中盤、既に屋敷を建ててそこに住んでいる伝右衛門と、いまだ防空壕で生活しつつ、そろそろ家が欲しいと思いはじめている寅三が、伝右衛門の屋敷で、二人で昼間からウイスキーを飲み、酔っている場面で、寅三と伝右衛門それぞれが考えていることが書かれている部分だ。まず寅三、次に伝右衛門の内省を引く。

考えて見れば、寅三が家が欲しいと思うのもただそこにいて家などということに頭を使わずにいたいからだった。勿論今いる防空壕も家だったが、そういう所では気を付けないと電燈で額を打ったり一跨ぎで家の端から端まで行ったりして自分がどこにいるかいやでも解らされてその注意の無駄がひどかった。それならばこうして伝右衛門さんと飲んでいるのは家にいることで防空壕に戻ってちゃぶ台に肘を付き、まり子の顔をどこか他所でも見たことがあるような気がしながらまり子と話しているのも家にいるのだった。そうすると寅三が家が欲しいというのはそうして自分がいる所に自分がいるのだという感じを長続きさせるのを望んでのことで、もし便所に入って水洗の取っ手を押して水が流れ出せばこれはそれ以上にその問題に就て考える必要はないということであり、寝部屋があってそこで朝目を覚ますのは早く起きないとまり子の邪魔になる心配がないことだった。それだけのことで寅三はそれだからこそ家が欲しいので、今は併し家にいた。
(『瓦礫の中』より、寅三の内省)
伝右衛門さんは寅三と飲んでいるのが誰となのか解らない状態になっていた。その部屋に日光が半分ばかり差し込んでいて陰を作り、飾り棚の置きものも淡い陰を落としていた。そうすると伝右衛門さんはその部屋が日光で満ちている所が想像出来て、もうその部屋にいないことになっているのでもよかった。或は自分がいる空間は思うままにどういう場所にもなり、そこは木の葉洩れに射して来る光を水が反射する河でもあり、音楽が続き過ぎて派手な沈黙に似て来た舞踏場の隅でも、いつ終わるのか見当も付かない相談が行われているどこかの会議室でも、儀仗兵が不動の姿勢で所どころに立っているので却って人間らしい感じがする宮殿の階段でも、或は誰といたのかはもう思い出せない薄暗い茶室でもあった。併し確かなことはそこがどこになってもそこを自分が見ていて自分の廻りにそこがあることで、そのどれもが曾て自分がここにいると思った場所だった。
(『瓦礫の中』より、伝右衛門の内省)

 同じ場所で一緒に酒を飲みながら、二人は正反対でもあり、しかし重なり合ってもいるようなことを、それぞれ感じ、考えている。この場面でも、このように感じ、考えているのは登場人物であると同時に作者であり、話の都合上、あるいは小説としての形式上の都合で、つまり、二人の人物の立場やキャラクターの違いを対照的に示すために、登場人物にこのような対照的なことがらを考えさせているのではないように読める。作者は、伝右衛門の立派な屋敷のなかの一部屋を設定し、二人の虚構の人物にそこで酒を飲ませることによって(そのよう語ることを通じて)、まさにここで書かれているようなことを感じ、考えている、もしくは、かつてそのように感じ、考えたことを、今、この場面を書きつつ、生々しく思い出している、ように読めるのだ。
 虚構の設定や登場人物は、作者が、そのような感触をよりよく思い出すための媒介としてのみ機能しているように思われる。『瓦礫の中』の語りは、虚構の人物を動かし、虚構の人物に語らせ、考えさせながら、それを通して(そのような段取りを踏むことで)「吉田健一」という個人の記憶と身体に働きかけ、それを刺激し、虚構と記憶とを通低させ、虚構のなかで生々しい声を響かせようとしているかのようだ。それは、ある感じ方、考え方を示すために(表現するために)、このような場面、このような人物が、このような会話が設定された、ということとは微妙に、だが決定的に異なるように思うのだ。
 そしてここで、寅三と伝右衛門とが、正反対とも、重なり合うとも言えることがらを感じているのが、連続して並べて記述されていることも重要だろう。読者は、この二つの「感じ」をつづけて読むことで、バラバラに読むのとは異なる「あるひとつの感触」を触知する。この二つの感じ方が、何の説明もなしに併置されるのを可能にするためにこそ、異なる登場人物が「二人」必要であったのだと感じられる。つまりこれは、対話でもモノローグでもない。その感じを出すためには、エッセイではなく「虚構」の人物が登場する小説として書かれる必要があったのだと考えられる。そしてこの二つの感じ方が併置されることによっていっそう、読者は(読者が読んでいる、今、ここにはいない)吉田健一という身体(記憶、脳)を、より生々しく、(それを読んでいる現在において)呼び寄せる。

5.『瓦礫の中』(吉田健一)と『あやめ』(松浦寿輝)
 唐突に感じられるかもしれないが、ここで、一つ前に引用した伝右衛門の考えの部分とほぼ同じようなことが書かれている小説を思い出すことが出来る。
松浦寿輝『あやめ』の登場人物である木原は小説の冒頭に、仕事帰りの秋葉原の路上で交通事故で死んでしまう。しかし、死んだはずの男は、自分の死を知りつつも、そのままなにくわぬ風に師走の街を歩きだし、自分の生家があった土地に建つ雑居ビルにある、かつて同級生だった女の子がママをやっているバーを訪れる。ここで木原の生家であるとされる場所は、ほとんどそのまま作者である松浦寿輝の実際の生家の場所と重なっていると思われる(この小説で語られる生家についての記述とほぼ同じものが、初期のエッセイ集『スローモーション』に書かれている)。
 つまり木原という人物は強く作者自身を想起させる人物であり、木原の思い出す過去は、多分に作者自身の過去の経験と重なると思われる(「松浦寿輝の読者」ならばそう読むであろうと「作家」は意識していると思われる)。この点で『瓦礫の中』の寅三と重なるだろう。どちらも、作者自身の過去や記憶を素材としていて、作者本人を思わせる主人公を、しかしある距離をもって設定している点で類似している。
 以下、松浦寿輝『あやめ』の結びの部分を引用する。

いずれにせよ本当の現実、混じりっ気なしの現実、そこらに転がっている石くれのように硬い手応えのある現実などどこにもないのだと木原は思った。そもそもその転がっている石くれ自体が単に化け物の見ているはかない夢まぼろしでしかないのかもしれないのだ。だから木原は砂利まみれの土が剥き出しになった更地のまま放っておかれている生家の跡地に横たわっているのかもしれず秋葉原近くの車道と舗道のはざまで血がじくじくとコートに染みこんでゆくのをうなじから背筋にかけて気持悪く感じながら横たわっているのかもしれなかった。あるいはただ単にひとけのなくなった深夜の酒場にこそ泥よろしく忍びこみ盗み酒でいい気持ちになっているだけなのかもしれなかった。それともいっそ木原はまだ子供のままでいて自分の小さな部屋にひっそりと閉じ籠り布団を頭からかぶって毒々しい敵意を投げかけ合う両親の罵声が耳に入らないふりをしているのかもしれなかった。そのどれでもいいしそのすべてがそうなのだと木原は思ったときそれは木原にとって紛れもない現実になるのであり、もし複数の様々なことをそれらはみなそうだと同時に思うのならその思った数だけの紛れもない複数の現実があるわけだった。それは結局すべてを肯定することにほかならずいつの間にか木原はあまりの幸福感に子どものように泣きじゃくりそうになっていた。
(『あやめ』)

 ここで書かれていることの「内容」だけをみるならば(あるいは、この部分だけを取り出してみるならば)、吉田健一の書く伝右衛門の考えと、松浦寿輝の書く木原の考えは、ほとんど同じものだと言えるだろう。しかし、ほぼ同じような内容を含む『瓦礫の中』と『あやめ』とでは、その小説の語りから感じられる感触がその長さの違い以上に異なる。この違いはどこからくるのだろうか。
 小説全体における引用部分の位置づけをみてみる。『瓦礫の中』の伝右衛門の考えは、小説の中盤に寅三と飲んでいる時にふと頭をよぎる事柄に過ぎないが、『あやめ』においてこの部分は小説の結びであり、死後も幽霊となってさまよう主人公の意識が、いよいよ途切れてしまう直前に主人公が行き着く果ての「思い」であり、あからさまに小説の「結論」であり、クライマックスである。結論と呼んでもオチと言ってもよいのだが、それはフィクションの外枠であり、フィクションの終わりを告げる明確な仕切りであり、つまり、『あやめ』の世界は内と外とに明確に枠付けられている。
 『瓦礫の中』の伝右衛門の頭をよぎる数々の情景(河や舞踏会や会議室など)は、それが小説のなかで意味をもったり説明されたりすることはなく(つまり、伏線となることはなく)、ただぶっきらぼうに投げ出されている(ぶっきらぼうで説明がないからこそ、読者はこの情景は作者の記憶から出て来たものであることの生々しさを、つまり吉田健一の身体を、その想起の生々しさを感じる)だけなのに対し、『あやめ』の木原に去来する情景(生家の跡地や秋葉原の車道や深夜の酒場)は、この小説を形作る数々のエピソードであり、その舞台となった場所であって、つまり伏線が回収されるように小説内の出来事の情景がきれいに反復されている。ここで書かれた言葉は、このような「考え」として突出するというよりも、作品内部の他の部分へと送り届けられ、そこで細部たちの間に呼応関係が生じ、その内部で意味(というか、関係)が完結する。逆に言えば、小説内の様々な情景は、この「結び」の部分へと送付されている。いったん放出されたものは、きちんと回収されるのだ。つまり、こういう風に出来ているのが「通常の小説」というものだ。
 松浦寿輝の小説でも、吉田健一と同様に、作中で高踏的な会話が交わされる。『あやめ』では、木原とバーテンが、あやめは死の象徴だとか、アイリスはあやめだけでなく虹彩という意味もある、などの会話を交わす。しかしこの会話もまた、吉田健一の会話のようにただ無為に語られるのではなく(それ自体として提出されるのではなく)、作品内の方の部分へと送り届けられ、響き合い、あるいは主題とかかわって作品全体を説明する機能をもつ。つまり、作品内にネットワーク的に広がり、かつ、その意味は作品内で一応の完結をみる。

6.「安定した私を魅了する、崩壊するという幻想」と、「崩壊しかねない私を安定させる装置としてのリズム」
 乱暴に言ってしまえば、『あやめ』の綿密に組み立てられた文の連なりを読んでいて感じられるのは、作者の記憶や身体の生々しい息づきであるよりも、作者を捉えてはなさないファンタスムの有り様だと言える。吉田健一においては、書くことは、そこから何が出て来るか分らない自身の身体や記憶に探りを入れるということであり、それは多分に出たとこ勝負でもあろう。だからこそその時に、揺るぎなく安定した文章のリズムや、何度も反復される同様の行為(食う・飲む・喋る)という安全装置が必須であるのだろう。出たとこ勝負であっても記述する私の身体(記憶、脳)=小説が崩壊しないために(つまり、安定のすぐ身近に実際に精神の崩壊の危機の兆候が常にあるからこそ)、リズムの技芸的な安定が必要なのだ。吉田健一を読む時、我々は、その安定した技芸と同時に、そのすぐ近くに身を潜めている崩壊の兆候を読んでもいる。
 対して、松浦寿輝において書く事は、自らの幻想の有り様に厳密に対応し一致する構築物を、一部の隙もなくつくりあげることであるようにみえる。そこには基本的に危険はなく、厳密さや正確さの方が問題とされるだろう。松浦寿輝の小説には、あらかじめ設定された世界観による安定(フレームの安定)が保証されたなかで、その内部で、「私」が「想像的」に揺るがされ、崩壊しそうになる様が、あくまでイメージとして何度も繰り返される。つまり、私は決して崩壊せず、「私の(世界の)崩壊というイメージ」が何度も繰り返し、享楽されている。その時、崩壊はあくまでイメージであって、それが現実の身体にまで及ばないように周到な配慮がなされている。
 例えば『半島』では、裏の世界によって世界観がひっくり返されるし、最後に枠取りされた小さな世界は炎上して消えてしまうのだが、そこまで含めて、(ファンタスムに忠実に、精巧に)自己完結的につくりあげられ、設定されている。
 きっちりと枠どりされ構築されることで「私」の安定が保証された上で、その枠どられた内部で、私や世界の崩壊というイメージが繰り返し享楽される。読者が読みとるのは、作者が手の内で丁寧にこしらえたミニチュアであり、そこでミニチュアが繰り返えし崩壊してしまうイメージであり、そのイメージを飽くことなく愛撫する手つきであろう。
 言い方は悪いが、このような退屈なイメージの反復に魅惑される者こそが、松浦寿輝の小説の読者であるということだろう。自分の欲望が凡庸であること、しかしその凡庸こそが浅ましいまでに生々しく求められていること。そのような自分の欲望をまざまざと知らされるような甘美で幸福な夢を見て目覚めた後に、身体に残る、苦さと甘さと恥ずかしさとが混ざったような感情にうち震えること。このような感触によって、ぼく自身もまた、松浦寿輝の小説が生み出すファンタスムに絡め取られ、強く魅了され続けている。端的に言って大好物なわけだ。
 『あやめ』の木原は作者の作り出した鏡像的な自己イメージであり、だからそこに伝記的事実が反映されていたとしても、作者自身の身体=記憶からは切り離され、それをうっとりと愛撫する手つきとしてのみ、その身体の感触が浮上する。しかし、『瓦礫の中』の寅三は、自身の似姿ではなく記憶を引き出す媒介=装置であり、同様の行為(食う・飲む・喋る)の反復により世界を安定させる安全弁でもあろう。寅三が、たまたま思いついた名前でしかないものとしてぶっきらぼうに登場するのは、それを書く作者のつくった自己イメージになってしまうことを、なんとかして避けようとしているということのあらわれであろう。登場人物がイメージではなくたんに「名」であることによって、書くこと=思い出すことそのものが孕む直接性の危うさが露出する。
(了)

初出 「ユリイカ」2006年10月号(特集・吉田健一)

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furuyatoshihiro
古谷利裕 画家、評論家、その他。An artist, a critic, others.    http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/ https://www.instagram.com/toshihirofuruya67/