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キッチンカーの生活史

……人生とは、あるいは生活史とは、要するにそれはそのつどの行為選択の連鎖である。そのつどその場所で私たちは、なんとかしてより良く生きようと、懸命になって選択を続ける。ひとつの行為は次の行為を生み、ひとつの選択は次の選択に結びついていく。こうしてひとつの、必然としか言いようのない、「人生」というものが連なっていくのだ。

そしてまた、都市というもの自体も、偶然と必然のあいだで存在している。たったいまちょうどここで出会い、すれ違い、行き交う人びとは、おたがい何の関係もない。その出会いには必然性もなく、意味もない。私たちはこの街に、ただの偶然で、一時的に集まっているにすぎない。しかしその一人ひとりが居ることには意味があり、必然性がある。
(岸政彦)

岸政彦編『東京の生活史』より

はじめに

岸先生の本を読んで、「生活史」にかぶれてしまい気味の僕です。
「袖振り合うも多生の縁」という言葉がありますが、振り合った袖の持ち主がどんな顔をしているのか、少し描いてみたくなりました。
細々と続けていきます。今回は移動販売からスタートし、焙煎珈琲の店舗をつくば市大曽根に構える「もっくん珈琲」の川村さんにお話を聞かせていただきました。
ひとつひとつの選択の連なりからなる、川村さんという人生を想像しながら読んでいただけると嬉しいです。

ドット絵とかキャラが2等身とかだったり表情がない、私はそっちの方が好きなんです。

赤ちゃんのときなのでわからないんですけど1歳2歳まで東京に住んでて、2歳から3歳ぐらいの頃に両親が神奈川にマンションを買って引っ越したという。川崎、ですね。そこが出身地っていう感覚、川崎が出身地なんですけど。母が、当時珍しく普通に働いてる人で、共働きの家で祖母がいて、結構祖母に食事の世話とかだいたい見てもらってっていう感じ。
 
―そのぐらいの時代だとやっぱり共働きってまだまだ珍しい?
 
珍しくて、ほんとクラス、小学校のクラスがいてお母さんが働いてる人っつーのは、まあ2,3人いるかいないかぐらい、本当に全員専業主婦みたいな時代でした。兄弟は、弟が年子でひとり。その弟とかなり仲が良くて、双子みたいに育った感じ。まあ結構、本当、弟と一緒に男の子の遊びをしていて、80年生まれなんですけど、すごいゲームが好きな女の子。当時はいないんです、ゲーム好きな女の子って。本当、男の子の方が割と話合うなという感覚で。
 
―その当時のゲームで言うと、その初代ファミコンとか?
 
そう、ファミコンの時代で4年生ぐらいのときスーファミが出るみたいな時代で。マリオとかアクションゲーム苦手で。RPGがすごく好きで、何かその4年生ぐらいから、それこそドラクエにすごいはまって。いわゆるオタクというか、それぐらいはまってましたね。それを語りだすと止まらなくて、それこそアラフォー周りの人しかここが良かったよねっていう感覚はあまり通じなくて、それ以降の世代になると、プレステより前のやつはグラフィックがしょぼいからみたいな感じであんまり話噛み合わない雰囲気になっちゃう。

でもドット絵とかキャラが2等身とかだったり表情がない、私はそっちの方が好きなんです。なんか想像の余地があって、ここでこのキャラがこういう会話をしてたんだろうなとか、今だとなんかフルボイスっていうのかな、声優さんが喋っちゃって、なんか想像の余地がないんだよね。だからドラゴンクエストのリメイクとかもされてるけど、なんかこの「作った人のイメージで私のキャラ動かさないで」みたいな。なんか、物語をすごく考える人だったんですよね。

中2からエレキギター習い始めて・・・そこで「習う」あたりがいい子ちゃんだなと思うけど。

―中学高校上がると?
 
私ちょっと風変わりだったから、女の子のきゃいきゃいした、陽キャみたいな、ダンス部の女の子とかからからかわれたりいじめられたりする。基本陽キャは嫌いなんです。つるんでたグループは本当に変わった子が多くて、そう、ジョジョを貸してくれたりとか。
 
高校では(中学から)持ち上がる人たちと、外部からの進学生が多少入ってきて。中学は偏差値は普通なんだけど高校は地元だと結構いいとこで。高校から入ってきた子たちもやっぱ、偏差値的には高くて風変わりな子たちがいっぱいいてっていう感じで刺激はあって。
 
―よくいるコミュニティとしては?
 
演劇部と、仲良くなった自分なりのお友達グループっていう感じ。そうね。いろいろ話すと、高校になったら軽音楽部も入って。
 
―いろいろやってますね。
 
そう、音楽がすごく好きというか。自分で言うのもなんだけど、才能的なものっていうのかな、音感が元々あったりとか、あとは3歳から、母親から無理やりですけど、ピアノを習わされて、弾けるけど強制されてたっていう部分ですごく嫌な思い出があって、あんまり上手になんなかったんですけど、中2からエレキギター習い始めて・・・そこで「習う」あたりがいい子ちゃんだなと思うけど。
 
―当時90年代くらいですよね、ジュディマリとか。
 
そうですね、90年の小室ファミリー全盛期みたいな頃に中高の時代を過ごし。
 
―もう音楽が元気だというか。
 
そうそうそう、そうなの。音楽シーンがすごい元気で、ミリオンセラーとか連発してた頃で。曲なんか聞いても、未来に希望があるんだよね。今の音楽聞くと、好きだけど、なんでこんな暗いの、みたいな。ボーカロイドの曲とか子供が持ち込んできて、聴くんだけど、「素直に生きたかった人生」みたいな(歌詞で)、20代とかで人生とか言っちゃうのみたいな。90年代は音楽が元気だったというか、時代が元気だったんだろうな。93~4年の頃の音楽って、バブルの残り香がすごくする。未来はきっといいことがあるみたいな。それが90年代後半になるとエヴァンゲリオンが流行り、浜崎あゆみの歌詞とか聴くと、何て言うか、ちょっと今の(時代の)予兆がする。鬱な時代に突入していく感じっていう。

そのときの感覚で、ネットリテラシーとか語るとやっぱりちょっと今の子と合わないので。「危なくないよ」っていう話をするのをいつしかやめました。危ないから。

―エヴァははまらなかったですか。もう我々は名作として受け入れるしかない。
 
なんか凄かったというか、友達は第1回から見てた子もいるんですけど、私は、話題になって3夜連続一挙放送みたいので見て。一気に見ると、より鬱度が増すっていうか、それで衝撃を受けて。
 
社会現象になったっていう歴史を、今聞かされるじゃないですか。本当にそんな感じで、みんなエヴァのこと喋ってるみたいな。その頃はWindows 95が出て、結構お父さんが新し物好きだったから、早速パソコンを買ってきて、電話回線でインターネットに繋いで。変な音がするの知ってます?ダイアルアップで、なんか「ぴろろろ、ぽろろろろ、ぴろんぴろん」とかいって。今だったらWi-Fi繋いで即だけど、電話をかけてネットに(繋ぐ)。SNSはなかったので、チャットルームとか掲示板っていうのがコミュニケーションツールで、私が一番最初に顔を出したのが、エヴァンゲリオンのファンチャットみたいなところで、そこでいろんな大人、と言っても、20代の大人と知り合って、オフ会とか。
 
―もう当時からそんな。
 
本当に黎明期の走りで、友達にオフ会行ったとか言うと、犯罪に巻き込まれるよとか、めっちゃみんなにびびられて。そこで会った人、だいたい関東とか東京近郊の人がどっか集まって、喋ったりとか、そこで仲良くなった、ちょっと年上の競馬が好きな兄ちゃんに連れられて競馬場に行ったりとか、仲良くなった大阪の同い年の男の子に会いに行ったりとか、なんか今思うとアクティブだったな。

今は結構やばい奴がいっぱいいるけど、その頃は割と「インターネットできる」っていうリテラシーを突破した勢しかいないので、いいやつばっかじゃないけど、変な人っていうのも、今ほどいなかった気はするんですけど。でもそのときの感覚で、ネットリテラシーとか語るとやっぱりちょっと今の子と合わないので。「危なくないよ」っていう話をするのをいつしかやめました。危ないから。

役に立つ人にさせようと親がしてくる程、何かそうではないものに行きたくなるというか。

―大学とかその先を意識し始めたって高校のどれくらい?
 
進学校だから、もう大学は行くものっていう感じ。役に立つことっていうのを大人は要求してくるというか、社会の役に立つなり実利になるなっていうのがすごく私嫌いで、今も嫌いですけど、なんかこう、役に立つ人にさせようと親がしてくる程、何かそうではないものに行きたくなるというか。
 
普通の大学に行くことにはなったんだけど、なんかもう「この世で最も役に立たない学問をやってやる」っていう、そういう意地の張り方をして。興味があったのが地学と歴史、どっちかにしようって思って。地学は地球科学ですけど、事象はもう小学校の頃からずっと好きで、よく星座の観察をしていたし。サブカル方面からも何かそういう「ゆるスピ」みたいな思想がすごく好きだったので、そっから地球科学にずっと興味を持ってて。
 
ただ高校地学って、特に進学校の理系だと取らしてもらえないんです。選択になくって、文系でしか取れないっていうのと、私、国語社会とか文系科目の方が割と得意だったので、高校のときはほとんど「地学がとりたい」で文系に行って、歴史も好きで。そういう損得とか、受験のために何かをやるっていうのにずっと抗い続けるというか。
 
私、つくばっていうのが茨城だということを知らなくて、「東京のどこかにある筑波大学」ってとこで何かやってるみたいに。場所も見ないで申し込んで、場所見たら茨城って書いてあって、どうやって行くのみたいな。で、高2の終わりにオープンキャンパスに行って、指導教官ともその時会ってて、なんか、ひとしきり化石の話というか、古生代の変な化石の話をその先生に振ったら、別に専門じゃないけど高校生に応対する程度のことは喋れるから、で喋ってくれて、こんなに地球科学のことをちゃんと喋ってくれる大人を初めて発見、みたいな感じで、私絶対ここ来るわと思って。
 
―どうでしたか筑波、第一印象といいますか、一歩踏み入れたときの。
 
一歩踏み入れたとき、なんだここはっていうか、ワンダーランドみたいな感覚。今は寮に住まない子も増えてるって聞くんですけど、(当時は)ほぼ全員寮みたいなところだから、何か巨大な修学旅行がずっと続いているような、そんな感覚で、すごく気に入りましたね。来て1ヶ月で本当、はっちゃけたというか。
 
ちょっと陰キャ卒業を目論んだんですけど、でもね、入学して3ヶ月ぐらいで陰キャは卒業できないということを(わかって)。頑張ってみたけど、いいや陰キャのままで。ちょっと陽キャとつるもうと頑張ってみたりとかしたけど、なんかやっぱ無理があるから。

ドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーなんかの物悲しい(世界観・音楽)のとすごく合うんだよね、民俗音楽って。

で、縁があったサークルが「フォルクローレ(南米民俗音楽)愛好会」、陰キャの塊みたいなサークルで。バンドサークルにしようかなと思ったところで、平砂(※寮のある地名)の土日の早朝から、目の前でバンドが新歓の勢いでワーッて演奏し始めてすごくうるさくて、なんか悪印象で、バンドはいいやと。
 
それで、ちょうどホームシックになってた頃に、そのフォルクローレの人が平砂で物悲しい曲を、笛と歌とでやってて、それでぐっとハートをつかまれて。何でしょうね、ゲームミュージックって言うのかな、ドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーなんかの物悲しい(世界観・音楽)のとすごく合うんだよね、民俗音楽って。ゲームミュージックにすごい思い入れがあったから、こんなゲームっぽい音楽ができるのは最高だなと思って。
 
初めは笛がやりたくて入ったんですけど、笛は難しくて、すごく。リコーダーと違って息を吹けば出るものではなくって、尺八みたい感じで、すぐ酸欠になっちゃうし、なんか思ったより上達しないなと思って。
 
ギターは地味だけど、かっこいいんだよとか、何でもできるよ、ってギターの先輩にそそのかされて。ギターは(中高時代に)やってたから、最初から割と弾けるから、これはやりやすいなって。そこで笛にかじりつかないあたり、ちょっとぬるかったなと思うんだけど。
 
―6年ですか、大学院まで。
 
研究者になろうと思ったんですよ。研究者になろうとした動機はすごくよくなくて、一生博物館で本を読みながらのんびり暮らせる、ビジネスとかからは程遠いところに行きたかった。博士を取れば博物館に行って毎日のんびり本を読みながら暮らせるんじゃないかって思ったの。その目標のために、博物館学とか、学芸員資格(の単位)は2年生のときで取って、実習も行ったんですけど、だからもういきあたりばったりっていう、将来これになりたいという明確な何かもなく、ただ大人の役に立ちたくないという、中2を引きずったような思想をずっと持ち続けながら、その都度好きなことをただしているっていう感じ。
 
―修士出て、博士行くか就職するかっていうところでは。
 
実はその、4年生で院試が8月ぐらいにあって、そこで博士課程(の試験)を受けて、それはほどなく通ったんですけど、その後行った9月の学会でちょっとね、騒ぎを起こしたというか。騒ぎってほどじゃないんだけど、私は上下関係がものすごく嫌いなので、飲み会があって、偉い先生に「お前お酌してこい」って言われて。お酌って言われたのが、「何、このお酌っていうのは、私が下っ端だからなの?、私が女だからなの?」って思って、なんか両方相まってすごいむかついて、「いやしないっす、お酌なんて。飲みたかったら自分で飲めばいいんじゃないですか」みたいなこと言って、それで先輩にくっそ怒られて。こんな上下関係が続くんなら、ちょっと無理だわと思って、院試受かった直後なんだけども、もう院行くのやめようかなって本当に思って、その後少し就職活動したんだよね。
 
でも、さすがに4年の最後の方の就職活動だから、普通の会社はもう全部募集が終わってて、その時アルバイト結構楽しかったから、ケーキ屋さんと喫茶店とでアルバイトしてて飲食関係を受けて、飲食は万年人が足りないんで、秋採用というのもあって、多少はやったけど、就活ごっこみたいなこと。でもこれだったらとりあえず2年間は院行って、そっからまた立て直そうって思って、就活はやめて渋々モチベーション上がらない大学院に進学して。

つくば駅前(CREO)で移動販売時代の「もっくん号」

その頃から、今はもっくん珈琲(コーヒー)ですけど、「もっくんカフェ」っていう名前は決めていた。かっこいい横文字の名前も考えたけど。

面倒見っていうのが先生の好み次第、っていうふうに当時の私には見えたんですけど、割と男はほっとかれて、女の子はフィールド1人で行かせると、やっぱ危ないじゃないですか、女性だと。だから、先生が一緒についていってサンプリングをして、研究室で分析するっていうのを、女性は任せられて、っていうの慣例だったのが、なんか、なんだろうね。中途半端にジェンダーっていうか、そういうことを持ち出して、「別にやりたいことやればいいですよ、男女でそういうふうに無条件に分けるのはおかしいでしょ」っていう話を先生にしたら、先生がすごい怒って。今だったらその機微はわかるんだけど、若かったからわかんなくて。先生にしてみたらね、面白くなかっただろうなと思うんだけど、でも、うちの先生も懐が深い人なので、見放さず最後まで面倒見てくれて。でもなんか結局、(私が)言いたいことをあんまり壁を作らず言ってくるっていうので、最終的には、結構仲良くなれて、結婚式とかも来てくださって。今の主人も同じ研究室で。
 
―研究室で出会った。
 
研究室で出会ったわけではないけど、最終的に同じ研究室に。会うのはもう、最初の自然学類の1年生で入ってきて、あの人は物理推薦で入ってるんですけど、2年生のとき、物理だからいなくなるって思ってたら、あれ、いるじゃん地球科学専攻に。どうしたのって言ったら、「こっちの方が面白そうだから」って。物理推薦で入ってるのにそういうのありなんだと思って。
 
―2年生から、今考えると、ご結婚されるところまでってことですけど、一応そういうお付き合いするってのはいつぐらい?
 
結構付き合ったのは遅くて、付き合い始めたのは大学院2年生の初めぐらい。その頃から、院にはもうそれ以上行かないっていうのは決まってたから、この先何しようっていうとこになって、4年生で研究者は駄目だってなったときから将来何するかっていう考え始めて、その頃カフェ文化っていうのが流行り始めた頃だったので、なんか、なんでしょうね、カフェをやろうって、あまりそのときも深く考えず、自分でお店をやるっていう夢を持ち始めたのが、だいたい4年生の終わりで。
 
その頃から、今はもっくん珈琲(コーヒー)ですけど、「もっくんカフェ」っていう名前は決めていた。かっこいい横文字の名前も考えたけど、その、陰キャが陽キャになれなかったじゃないけど、私は私のことしかできないから、もう等身大でもっくんカフェでいいかなって。
 
―「もっくん」はちなみに?
 
私の旧姓が元木(モトキ)で、それで大学のときは、1年生のときからずっとみんなから「もっくん」って呼ばれていて。高校まではね、下の名前、ハヅキで「はーちゃん」ってみんなに呼ばれてたから、大学もそのように呼んでくれとサークルのみんなに言ったんだけど、(私が)男がするような話がめちゃくちゃ通じる人、ゲームの話にしても、いろんなサブカルの話にしてもありえないぐらい男っぽい話が通じる人だから、はーちゃんなんて言うものじゃなくて、もっくんと呼ばれるようになって、初めは気に入ってなかったんだけど、そのうち全員もっくんって呼ぶようになったから、そのうち気に入っちゃったっていう。 

行く出先で知ってる顔が常にいるっていう関係性が、町との付き合いっていう感覚がほとんどなくて、自分が6年間いた中で作った生活と人間関係をリセットして東京に行く意味、ちょっと私には耐えられないと思って。

修士の1年の終わりぐらいから就職活動が始まるんだけど、無礼な性格だったのと、あとは、当時は鍋底景気で全然就職がなかったんですよね。大企業とか、面接で喋るのは、こうやって喋るんだけど、相手が要求していることというのを、無言で要求してきてることに対して的確な答えを言うっていうのをやれない人だったから、あらかた駄目だったんですね、就活は。
 
嫌だなあと思ったところに、●●という会社がありまして、つくばの会社なんだけど、そこの社長さんが非常に面白い方で、合同説明会みたいので、冷やかし半分で、行ったその●●のブース、社長さんの話を説明会で聞かせてもらって、スッゴイ面白い人だなあと思って。(最終的に)●●しか受からなかったんですよね。
 
―つくばとのご縁は本当にそういう、巡り合わせじゃないですけど。
 
つくばから帰りたくないっていうのもすごくあった。正直ね。実家にも帰りたくなかったし、つくばで結構お友達もたくさんできて、近所の付き合いって言うのかな、クリーニング屋のおばちゃんとか、行く出先で知ってる顔が常にいるっていう関係性が、それまで高校のときはあんまりそういう感じじゃないというか。町との付き合いっていう感覚が、ベッドタウンだからほとんどなくて、つくばでの、自分が6年間いた中で作った人間関係っていうのが、すごく温かく思えたので、この生活と人間関係をリセットして東京に行く意味、あの殺人的に混んでる電車に、乗車率200%の電車に乗って、毎日無難な仕事に、事務的な仕事に行くっていうのはちょっと私には耐えられないと思って。それもあって多分東京の会社での就活はモチベーション上がらなかったのもありますね。
 
―●●では何年ぐらい、ちなみに。
 
3年間。今思うと短いけど何かギュッと濃い3年間。最初の1年は現場からなんですね、新入社員でも。本当、人生で一番苦しいのあのときだったなっていう。まず店長から怒鳴られ怒られ、先輩社員からも怒鳴られ怒られ、わたし怒鳴られるのすっごく嫌いなので、もうストレスすぎて、出社し始めて1週間ぐらいでもうやめようかなって思うぐらい嫌で、半年で17キロぐらい痩せちゃった。大学院のときちょっと太ってたから、いいダイエットになったんだけど。このままじゃ死んじゃうって思って。
 
半年で辞めるって人間としてやばいかなっていうのはあったんだけど、これは言わなきゃいけないな、もうやめるって。上の人にもやめますって言ったら、「あなたは現場向いてないかもしれないけど、3ヶ月待ってくれたら、事務方に回してあげるから辞めないで」っていうことで、止めてくれて。3ヶ月残り頑張って、12月ぐらいまで働いて、1月から、当時はそのお店の2階に事務室があって、そこに移してもらった。採用の仕事を任されて、私も入ったばっかなんだけど、みたいな。
 
(そこの)仕事はなんかね、重圧はあったけど、1人で勝手にやっていい感じだったからすごく性に合って、残業とか苦になんないタイプ。なんていうか、1人で勝手にやらしてもらえる残業は苦にならなくて。現場の頃は、店の作業が終わらなくてずっと残業強いられてたのがすごく嫌だったんだけど、なんかそう、2年目はめちゃくちゃ一生懸命働いて。(採用の仕事の他に)ホームページを作る仕事も、1年かけて業者さんとやりとりして。
 
高校の頃からね、チャットとかやってて、HTMLも自分で書ける感じだったから、業者さんとのやりとりもすごくスムーズで、何かのコンセプトを、これはこうですって説明したり、人にインタビュー行ったりとか、そういうのをまとめたりする作業みたいのは、すごく才能があるんだっていうのがその時、自分でわかったんですよね。

「就活しないの」って聞いたら、「俺はいいや」って。「いいや」って言えるのすごいと思って、そういうとこが好きだったんです。


―●●から移動販売まではわりとすぐでしたか。
 
そうね、カフェをやるために、一瞬会社に入ったという認識だったから。それも会社の人にしてみたら申し訳ない話だった気がするんだけど、中ではすごい勉強になったし、今でも糧になってるんだけど、最終的には社長と喧嘩して辞めるっていう。
 
喧嘩して辞めるんですが、そっから食べていかねばならないんで、早速何かを始めるっていうふうになって。車は元々買ってあったんです。それもなんか一目ぼれしちゃって、移動販売っていう商売のやり方があるっていうのはもう勤めてるときに、本屋で見かけた本で「移動販売を始めよう」という、ワーゲンバスでこんな移動販売やってますみたいな事例を紹介した本がいっぱいあって、それで見切り発車で、車だけローン組んで買っちゃって。
 
ちょっとずつ、主人が結構器用な人だからDIYして、なんとなくお店をやれる雰囲気は作っておいたというか、うん。
 
―ご主人は大学院出られて。
 
大学院出て、ぶらぶらしてました。就活してなくて、「就活しないの」って聞いたら、「俺はいいや」って。「いいや」って言えるのすごいと思って、そういうとこが好きだったんです。
 
あの人はあの人で、スタジオ立ち上げたいみたいな、そういう物作り、コンテンツ作りっていう夢があって、だから余暇がちゃんと空く仕事っていうのを探してて、浮世離れしていったかなあと思うんですけど、このままじゃ結婚もできないし就職してくれば、って言ったら、次の日ハローワーク行って、谷田部の方にある個人商店のお米屋さんの仕事を見つけてきて、「9時-17時って書いてある」、とか言って。それで面接に行ったら、向こうの方がびびっちゃって。「うちそんな給料出せないから」と言って、でも「全然全然いいんで」とか言って。
 
お米屋さんでものすごい働いて、しばらくアルバイトだか何だかわかんない地位で、っていう時期が1年ちょっと続いて、私が会社の2年目のときに結婚はしたんですよ。そのときに移動販売車もお披露目してたんですね、結婚式場に持ってって。
 
いつかこれをやりますっていうのを、社長とかいるのに見せる私みたいな、今思うとなんか、自己顕示欲というか承認欲求みたいのは激しかったので、割と恥ずかしめな人生だなと。

お金貯めるの待ってたら、年取っちゃうなというか、今すぐやりたかった。

―移動販売、じゃもう割と早くと行き着いたんですね。
 
そうだね。カフェをやるってなって、すごくお金がいるっていうのは開業のマニュアルの方に書いてあるので、あんまり貯金ができない性格だったこともあり、お金貯めるの待ってたら、年取っちゃうなというか、今すぐやりたかった。
 
ワーゲンバス、本物のワーゲンって高いんですよ。整備の面でも結構古いから難があるみたいなことを何かで聞きかじって、ワーゲン風にカスタマイズしたスバルの「サンバー」っていうワンボックスのものがあって、それをカスタマイズした状態のものを買ってくるっていう。
 
―移動販売は何年ぐらいやられて。
 
その車は「もっくん号」と名付けたんですけど、もっくん号でやってたのは、2013年ぐらいまで。5年間ぐらいやって、スバルのサンバーも古い車だったので、壊れてきちゃって動かなくなっちゃった。それでこれからどうするかっていうときに、最後の方は、別の1台、もう1台車持ってたので牽引しながらとか結構頑張って。2人でなんとかやってたんだけど、2012年に長男が生まれて、その頃、車が壊れた頃に、あるスペースでカフェやらないかっていう話があったんで、一瞬そこに入ったんだけど、ちょっと採算が合わなかったので1年弱で出てっていう。
 
その後、場所がなくなっちゃって、車もなくなっちゃって、あー終わったかなと思ったんだけどね、テントで販売できる営業許可区分ができたんですよ。「露店営業許可」っていう。
 
これでいけるじゃんってなって、2年ぐらいつくばセンターの警察署の隣の辺りにあって、そこでコーヒーと飲み物を出して、お菓子も焼いて、その頃は菓子製造の営業許可もあったので、家で菓子焼いてっていう感じだったんだけど、あんまり売れない。そういう感じで、土日のマルシェで主な売上を立てて、足りないところはバイトとかして何とかするみたいな。
 
でも場所を1回持って(わかったことは)、結構お金かかるんですよ、テナントとかって。それでお金が回せなくなって手放したっていうのは、結構な挫折経験だったけど、その、固定費がなくなるっていうか、家賃とかいろいろ払わなきゃなんないものから解放されて、日々ぶらぶらしてればいいっていうのが、お店を出ちゃったときに、2015年の1月ぐらいかな。もうなんかめちゃくちゃ自由だなと思って、最高だわみたいな。あんまり商売上手じゃなかったから、正直ずっとお金には困ってる状態。でも結構、2人ともヘラヘラしてるから何とかしてたっていう感じなんだけど。
 
―移動販売のときにお客さんとの距離の詰め方ってどうなったんでしょう。
 
いや、私からは詰めない。人見知りだから、向こうが来る。詰めてくるみたいな感じで。だから向こうが構ってくれる人に話すのはすごい好きなのでっていう感じで、自分から行けないから待ってるっていう。だからお店すごく良かったんだろうなあと思って。
 
Twitterがちょうど黎明期を迎えた頃に開店して、2008年くらいで、かなり早めに始めたんじゃないかなと思うんですよね。初めは本当に7、8割のお客さんは、Twitter経由で来るどこからともなく(来る)不思議な人たちっていう感じで。でも高校の(チャットルームの)ときと違って、普通の人がたくさん来たなみたいな。一般の人で、若い人も来るし、50代とかでTwitterやってるみたいな風変わりな人も来るし。デジタルツールとともに、広告費かけないで、お客さん来たっていう。
 
―じゃあタイミングですよね。
 
タイミングが良かったのと、あとはSNSが好きだったから。商売でやってると、あれってあんま面白くないですよね、アカウント。日常生活のことをつぶやくお店の人だからみんな、家族みたいに思ってくれたのかなあ。出産のときとか、めっちゃ応援されました。

 

「勇者っていうのは何でもできるけど何にもできねえんだ」っていうシーンがあって、この「何でもできるけど何にもできねえ」って私のことだと思って。


―最後の質問なんですけど、移動販売車新しく買って、もうずっと移動でっていう風にはならなかったんですか、5年で目覚めちゃってみたいな。
 
車って壊れるし、私、車は興味がない、あの車自体には。もう最後の頃は直すたびにまた次壊れたらっていう心配、結構なお金もかかるから、すごく嫌になっちゃって。
 
話長くなっちゃうけど、焙煎をやりたかった、珈琲屋として。前はコーヒーファクトリーさん(※)の豆を取ってそれをずっと使ってやってたんだけど、コーヒーフェスティバルを主催した後に、コーヒー屋として認識されてないっていうことが自分でわかってしまって、10年間やってきたのに、みんなにはそう思われてなかったというのが結構ショックでした。それでこれはお店を持つ(焙煎を始める)しか自分を納得させる方法はないだろうと思って頑張った。

 ※

―コーヒー屋じゃなくて、どう思われたんですかね当時。
 
ふらふらしてるカフェの人みたいな。そうね、コーヒーのことは10年間やってきたからそこそこ積み上げた気でいたけど、その界隈の中では、お店の人認識はされてないんだなっていう。誰も言ってこないよ、そんなことは。自分で思ったことです。でもやっぱりお店作ったら、アイデンティティ的には満足したみたい。
 
学生の頃から、何やりたいのかわかんないままフラフラしてきたけど、承認欲求的なものはそこでやっと止まった気がするっていうか。私はお店を持ってて、コーヒー(の焙煎)を、私達はやっているっていうので、なんかすごく楽になった気がしますね。
 
スキルはたくさんあったというか、何でもやればできちゃうしっていうのは器用さはあったんだけど、私はこれの人だっていうのが自分の中でなかったんですよ。だからちょっと、もやってたというか。
 
何者にもなれないっていう、何でもやればできるのにできないって言う、なんだっけなこれ、長くなっちゃうんですけど。「勇者の話」っていうのが、サブカルですけど『ダイの大冒険』っていう漫画であって、「勇者っていうのは何でもできるけど何にもできねえんだ」っていうシーンがあって、じゃあ勇者って何なのっていうのを命題的に考えるみたいなシーンがあって、この「何でもできるけど何にもできねえ」って私のことだと思って。ずっとそれで、悩んでいたというか。
 
でも自分の程度っていうものってあるので、これでいいのかなって自分が思えたら、別にナンバーワンじゃなくても、良いというか、別にうち(もっくん珈琲)が一番だとか、誰々に比べてどうこうとかは、客観的にはあると思うけどどうでもいい話かなっていう。今はそう思えるんだから、一番になる必要は私はなかったみたいな。納得すればよかったという。
 
結局その『ダイの大冒険』の中でも、答えが示されないんだよね。勇者って何なのっていうのを、もやっと終わらして、主人公ダイに当てられた言葉っていうのが最後まで謎のまま。あいつ(勇者)とは何だ、っていうのは。
 
―これも別にあえてオチをつけずに終わらせようと思います。と言いつつ何かあります?物語はそれで終わったときに、勇者って何なんだろうなっていうご自身なりの。
 
そうね、みんなの中に希望を与える存在だから、その人自体はからっぽ、なんだけど、この勇者っていう存在に、みんなが何か希望を投影することで、周りを巻き込んで世界を変えるっていうのが、勇者なんだろうなと。「空っぽの存在」っていうのは、われながら、よく言ったと。だから逆になんでもなくていいっていうのはありますね。強いて言えば、希望、みんなが希望を投影できる存在、神みたいなものですよね。ランドマークであれば良いという。だからそのツイッターとかでも、みんなの中でこんな生き方をしてる人もいるんだという希望になれたら良いなと思ってます。裏側はいろいろ困ってることもあるけど、お気楽に生きてる人たちだと思われることが多いので、それが幸い。



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