「関係人口」というテーゼ

「関係人口」なるものが取り沙汰されていることは知っていました。
しかし、行政やまちづくりの関係者に対してこれほどの影響力を持っているとは。

あらためて、「関係人口」とはなにか。考えてみたいと思います。

【「交流人口」から「関係人口」へ】
「関係人口」以前の世界。
それは「交流人口」という概念です。
少子高齢化。メガシティ化という全世界同時の潮流。
地方からどんどん人口が減っていきます。
困るのは誰か。商店経営者やその利用者も困りますが、
まず税収が減ります。とくに困るのは行政、なので旗振り役も然り。

そこで「移住促進」や「観光推進」が行われます。
この場合の「観光」はもちろん観光客がお金を落とす、
地域の経済活性化も狙いますが、
「訪問者がその土地を気に入って移住する」という目論見も内包しています。
これは一見、マーケティングプロセスとして見ると、正しいように思えます。

従来の観光協会の運営のみならず、
あまり特色もなさそうな自治体(失礼!)、猫も杓子も「観光」に血道を
あげているのにはこういう背景があるのです。
移住の前に観光あり。

では業者に大枚はたいて観光パンフレットやHPを刷新して何が起こるか。
結局のところ、風は吹かないでしょう。
もともと著名な観光地はインバウンドの波が訪れ、賑わいますが、
そうでないところはよくて観光バスが通過していくだけ。
無念、努力の甲斐なし。

今までの投資はすべて沈んでしまったのか。
モチベーションの維持が難しくなった役所に啓示がくだされます。
それが「関係人口」なのです。


【時代は「お気楽さ」を求める】
ここからは営業代行やマーケティング関連のお仕事をしていた方だと
イメージしていただきやすいでしょう。
「見込み客」獲得のプロセスの入り口を広げるのが「関係人口」というやり口です。
はっきりいうと、全然新しい概念ではないのです。

観光にせよ、移住体験にせよ、実際に外のひとが訪れるのが「交流人口」。
ふるさと納税や、SNS。リアルな交流以外もそこに含むのが「関係人口」。
簡単に描写してしまうと、facebookやinstagramのページを立ち上げて、
「フォロワー」や「いいね!」が増えると、ヨシとすることです。

恐ろしいのは、これをKPI、仕事の目標にしてしまっていることでしょう。
分業化したプロセスの初期の初期の段階で満足してしまう、という構図です。リアルな効果にたどり着かずに、お仕事は完了とみなされるのです。

得をするのは誰か。
アヤシゲなコンサルさんとかには「飯のタネ」が増えるなんとも美味しいからくりです。

もちろん、なかには「関係人口」という入り口を強化して、
観光や移住の収穫を得ている自治体もあります。
ふるさと納税で高額税収を得ているところは例外なく戦術はあるでしょう。
(長期的戦略があるかどうかは置いておきます)
観光客が増えることで「市民の誇り」が喚起されるという向きもあるようです。
外側からアイデアや、コラボレーション(産学官連携など)の機会も得られます。

ただ、成功するにせよ、失敗するにせよ、
「関係人口」ゲームで「地方における幸せ」が本当に実現するのか、
無批判に全員が賭け金をぶち込む必要性があるかと提起したいと思います。


【一方で古代アテナイ、その市街では】
ここから話が飛びます。
遠く、西、ギリシャ半島へ。
時間軸はさらに遠く、遠く。紀元前5世紀。
道端で、広場で、市場の隅で、人々が議論にふける古代アテナイの街。

歴史上、じつに多くの示唆を与えてくれるこの場所の、
今回は「政治のスタイル」に注目してみましょう。

古代アテナイでは「直接民主制」を採用していました。
これは現代のように選挙によって選ばれた、
専任の、職業としての政治家に政治を代行されるものではなく、
文字通り、市民が直接政治の意思決定を会議によって決める、というものです。
18歳以上の成人男性(女性、奴隷、一部の権利剥奪者を除く)みなに平等に
政治参加の機会が与えられます。
さらにポイントは、政治の決定者がそのまま実行者になる、というものです。
たとえば「戦争をする」ということが決定すれば、決定した市民が直接剣を取り、
命がけで戦うことになります。
その危険と、相手国から奪える領土や資産による将来の生活の充実。
政治が直接、そのひとの生命や生活を左右するのです。
つまり、政治家(古代アテナイの場合は意見者)も市民も、
現代よりも政治においては緊張とプレッシャーにさらされていたことになります。
つまり、政治に無関心ではいられないのです。
そうなると、自分たちが生きる社会に対する責任や当事者意識(オーナーシップ)が生じます。
「自分たちがつくりあげた社会、自分たちの手によるまち」これこそが、
本当の「市民の誇り」と呼べるものではないでしょうか。
「郷土」というなかば宿命的な、先天的なものだけを指す偏狭な見方ではなく。

この古代アテナイの政治は副産物を与えます。
古代アテナイの人々の知的水準は、人類史上最高のレヴェルだったと知られています。
(「ルネッサンス」も「古代の再生」を意味します。古代ギリシャや古代ローマはヨーロッパにおける憧れの時代であり、理想郷だったのです)
これは公的な場に参加することで、市民が教養あるひとたちに
「教育される」からだと言われております。この場合の教育は「薫陶を受ける」といった意味です。知識の伝授にとどまらない人格形成です。
市民は公的な会議の場で「道徳心」を学んでいたのです。

つまり、古代アテナイの政治の副産物は「個人のエンパワメント」だったと言えるでしょう。

さらにつけくわえるならば、
公的な立場にたつことで「メタ認知」が強化されると考えます。
個人という定点からではなく、視座を高くする。
「公共のため」「社会のため」という視点です。
(ちなみに「派閥」や「党」は古代ギリシャでははっきり「悪」のイメージです。「我が陣営のため」の考えは間違いだとされます)
現代では「経営者視点を各社員に求める」というのもこれに近いでしょう。
すなわち、エゴを離れ、社会全体を俯瞰して、自分や他者がどうすればよいか?
システムにどう手を加えればよいか?
と考えるには「メタ認知」が必要です。
家庭や学校、職場という単位から「社会」へのオーナーシップの拡大。
それは「知性と幸福の拡大」なのでしょう。
人間を「社会的生物」だとするならば、
「知性の本質」その必要条件と定義してよいはずです。


【歴史を学ぶ意義】
脱線に脱線を重ねることをお許し願えるならば、
「歴史を学ぶ意義」をここで再定義したいと思います。
歴史を学ぶ。成功や失敗の統計。それを「知識」として活用する効用は、
確かに大きく、否定できません。
しかし、わたしはそれ以上に、歴史から「人間の本質」を抽出し、
歴史の大きな流れを見、そのなかで自分をどう位置づけるか、
未来に向けてどのような石を置くことができるのか、という
「時間軸」でのメタ認知を磨くことができると考えるのです。
まあ、「ワールドイズマイン」どころでない傲慢さと、とられかねないですが...。


【地方に「古代アテナイ」を再現できるか】
古代アテナイを持ち出したのは、
「公の場への参加が社会への当事者意識が高まる」
ひいては「市民の知的レヴェルが向上し、幸福度も高まる」ことを申したかったのです。
それを現代社会へ採用するならば、
・比較的少人数(互いが知り合い)
・決定者と実行者がイコール
のふたつが可能性のあるエッセンスだと思われます。
・まずは社会(コミュニティ)の範囲を小さくしてみる。
・自分たちに本当に関係のある(ex.生命、生活)テーマについて会議する
ことが有効かと思われます。


この視点だと、「関係人口」の定義での参加者が
「おれ関係ねーし」とならないか?
(発言の機会があるとして)意見が無責任にならないか?
というところが気になるのです。
オブザーバーあるいはアドバイザーのポジションが適任に思われるのです。
決定者という資格を与えるのは、「じっさいに暮らす市民」の当事者意識を削るでしょう。


【「関係人口」は市民参加を促せるか】
「見られている」という意識で人間は奮起します。
終始、意地の悪い視点で語りましたが、
そういう意味では「関係人口」も悪くないと思えるのです。
問題はそれが市民の社会参加を促せるかどうか?です。

わたし自身は内部での「チーム編成」を設計するほうが、
優先順位が高いように思えるのですが...。
どうも、とりあえず仕事をしているように見せかけるために、
行政やメディア、アドバイザーやらの関係者が踊らされているのか、
踊らせているのか。

「関係人口」という耳障りのよい、「概念」に飛びついているように見えます。地方の使命はこのように<東京>から下されるものなのでしょうか。

いずれにせよ、「目的」はなにかを明らかにし、
最適な「手段」を選ぶ上でも、内部でよくよく議論した後に
手をつけはじめて遅過ぎはしないだろうと思うのです。

ゲームのルールが理解できていない状況では、「プレイ」よりもまずは「ステイ」で場を観察するのが得策でしょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?