第二十三回 ジョージ・オーウェル『詩とマイクロホン』

こんにちは。今週はSF作家としても知られるジョージ・オーウェルの評論について語り合いました。

https://www.aozora.gr.jp/cards/002035/files/59408_67530.html?fbclid=IwAR0WdVZDRZCEVDzRoAdOn0jaQ8ibarBNw5IYsBF8CBfdUk2StYXwmnQ1p6Q

このエッセイですが、出典が曖昧でいつごろ書かれたものか...おそらく1942〜4年頃、第二次大戦中ではなかろうかと推察されます。
この頃のメディアとしては、ラジオはちょうど普及期(テレビは実験放送が始まったころ)にあったようです。

普及期におけるラジオの印象

その頃(40年代)のイギリスのラジオ番組の中身についてオーウェルは

・現代文学趣味のつまらぬレギュラー番組
・嘘八百のプロパガンダ
・ブリキ缶入り音楽
・陳腐なジョーク
・サクラによる「討論」

とその「低俗さ」を散々にこきおろしています。

オーウェルの予見したラジオの可能性

一方でラジオというメディアの可能性についても述べています。
それは「ニッチ(隙間)」で成り立つこと。
ニッチだからゲリラ的放送もできる、と喜んでいます。

対立的に引き合いにだされた映画と比べるとわかりやすい。
映画は「予算」がかかります。そのため、大企業やもしくは政府機関がスポンサーとならないと制作がおぼつかない。
そうなると大勢に受ける「低俗さ」もしくは政府に媚びた「プロパガンダもの」に
(あるいは最悪なことにその両方に)
偏っていく、と指摘しています。

しかし、ラジオは制作にカネがかからないので、
そのぶん制約を受けずに済む、としています。

反・全体主義の前線として

ジョージ・オーウェルといえば
『1984年』
『動物農場』
など、全体主義に支配されたディストピアを舞台とした小説で有名です。
※ちなみに全体主義をここでは政治体制のみならず、
「異論を認めない空気」「思考停止ムード」
と広義な解釈でお願いします。

こういう世界観ではどうなるか?
オーウェルの観察と想像は凄まじいな、となるのですが、
個人的に『1984年』で印象的だったのは、
・テクノロジーを監視機能に全ブリ
・「思考をはじめた個人」はボコボコにされる
というポイントです。

後半、オーウェルの希望をこめたメッセージは、
このような全体主義にも「穴がある」ということでしょう。


・体制側の「腐ったリンゴ」たるインテリゲンチャ(クリエイター)たち、
・インテリゲンチャ製造媒体としての(芸術)

この状況を利用して文化的テロをラジオというメディアを通して行っていこう、
というゲリラ宣言にも思えるのです。

ラジオ番組をつくろう(?)

当時と現代では事情が異なります。
今は誰でも安価に(もしくはほとんど無料で)オピニオンを発信することができます。

なので、媒体そのものの選択肢も様々あろうとは思いますが、
「もしラジオ番組をつくるなら?」という計画について論じました。
他のメディアと比べてのラジオの利点としては

・安くつくれる
・映像がない(パンツ一丁で収録しても構わない)
・コンプラがゆるい

オーウェルは「詩(芸術)の普及」を目的としたどちらかというと
「ハイソ」な方向性でしたが、
わたしたちはむしろ「好き勝手に低俗な」ほうが、
ラジオの特性をいかせるのではないだろうかと考えましたね。

でも、このゆるい姿勢はオーウェルには
たんなる「大衆迎合」であり「全体主義への加担」に映るのかなあ。

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