第七回 アナトール・フランス『母の話』

今回は寓話をチョイス。でしたが、「寓話はウラの意味を考察するのが醍醐味」というのを共有できていなかったのは大きな反省ポイントでした。

寓話の読み方は自由です。その意見が正しくなくとも、ひねくれていればいるほどその寓話を骨の髄まで楽しんだ、と言えるでしょう。
ですので、以下に述べることも、事実とは異なるかもしれませんが、できるだけ、ヒネた視点から解釈をしようと努めました。

なぜ「母」はこのような話をしたのか?

2篇の物語の内容に言及する前に、そもそも論です。なぜ、「母」はこのような話を「子ども」にしたのでしょうか?
考えられる仮説としては、
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・第一に楽しませるため
・第二に「教育」のため
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「母」は物語を通してなんらかの教訓や価値観などのメッセージを伝えようとしたのではないか、と考えられます。
こう生きてほしい」という願いをこめた。

『前書き』によると「子ども(作者)」は「母」をこのうえなく尊敬し、敬愛しています。天才肌のストーリーテラーとして。本質を見抜く批評家 として。
物語の話者が、物語を外側から見ています。
そうすると、この寓話の全体的構成は、
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作者>母>2篇の物語
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つまり作者は「母」に対して「神の視点」を持っていることになり、
「母」本人が物語に込めたメッセージを解読するだけでは不十分で、
作者が「母」を語ることによってなにを読者に伝えようとしたのか、
この二重構造を読み解かなければならないのです。

「母」のメッセージ

『学校』『大きいものの過ち』の2篇に、
「母」からの共通したメッセージは

「世の中にはいろいろなモノサシがあって。優秀さ、強さは絶対不変のものではないのよ」

といったところでしょうか。

作者の寓意

「勉強なんて大切なことではないのよ」現代でも、このように耳障りの良い言葉は溢れています。瞬間の媚のための見せかけのフレンドリー。このような無責任なオトナは信用しないにこしたことはないでしょう。作者の隠したメッセージとして、「オトナに引き裂かれる子ども」が浮かび上がってきます。
たとえば以下の文章。




誰がなんといっても、ジャンセエニュ先生の学校は、世界中にある女の子の学校のうちで一番いい学校です。そうじゃないなんて思ったり、いったりする者があったら、それこそ神様を敬わないで、人の悪口をいう人だといってやります。


物語がすすんでも、この学校と先生の良さというのは全然でてこないのです。これは「先生は尊敬しなければなりません」という絶対的な教えを揶揄しているのです。
しかも、家に帰ると、お母さんは「いい点を取っても得にはならない」つまり、「先生はあてにならない」という。小さなエムリーヌは尊敬するオトナのどちらを信頼すればよいのでしょう?

無知か?絶対の愛か?

その場しのぎの甘言を弄する「無責任なオトナ」と前述しましたが、
作者の「母たち」への視点は少々違うようです。もっと暖かみを感じます。
いわゆる「教育ママ」と真逆のエムリーヌの母。
いい成績に対して過剰に褒めることもしなければ、おそらく悪い点にも動じないのでしょう。優等生であろうとなかろうと、娘への愛は変わらない。絶対の肯定。
一方で、エムリーヌの母の考えが一面的であるのも否定できません。

「母の物語」からの自立

結局、子どもは何を信じればよいのでしょうか?
「大人は子どもを小さな世界に閉じ込めようとする」
カズオ・イシグロが『わたしを離さないで』で描いたのはこのような「子どもの世界」のメタファーです。
つまり、子どもから大人になるためには、母や先生、大人の語る「物語」から一旦、離れる必要があるのです。自分自身で考えをつくっていかなければならないのです。いわゆる「教養小説」というジャンルで描かれるのはココから先の冒険譚です(『人間の絆』と『魔の山』が個人的にオススメです)。
教養小説の基本的なプロットは、主人公が様々な考えを持つ人々と出会い、
精神的に成長していく...というもので、大人になるためには、やはりいろいろな思想に触れる必要があるのでしょう。

以上です。
今回は、かなり彷徨いました。過去最高に苦労した会です。
その反動(?)と言ってはナンですが、パキッと明快なヤツが欲しくなりました。
というわけで、第八回は福沢諭吉『教育の事』です。アデュー!

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