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冷静な判断をなくし「うううううう」と陥る時。 それは「世界すべてが自分の敵」と思い込んだ時だ。

にらみつける
暴言を吐く
なぐりつける

先生という職業柄
子どもたち同士がトラブルを起こして
そんな状況に陥る所によく遭遇する。

そんな場面を目にした時に僕が考えることは何か?
それは
「心をときほぐす」
ということだ。

人が意固地になる時はどんな時か。
僕自身の体験を掘り起こして考えてみる。
冷静な判断をなくし「うううううう」と陥る時。
それは「世界すべてが自分の敵」と思い込んだ時だ。

誰も僕のことをわかってくれない。

実際はそんなことはないのに、そう思い込んでしまうと僕の視界は一瞬で閉じて全てが真っ黒の世界になる。
子どもたちだって同じだ。
トラブルが起きると相手も周りもすべて敵に見える。
そんな状況で先生が何を語っても意味がない。

よくありがちなのは、そこで先生が話し合いをさせて

「きみはこんなことをされて、こう思ったんだね
 けど
 手を出してしまったらだめだよね」

と仲裁をする。
世界が敵に見えている子はこの言葉で先生も敵になる。
この方法は子どもたちをますます黒い世界に閉じこもらせる。

子ども同士のトラブルが起きた時、僕がいつも考えているのは

100点の奪い合いをしない

ということだ。
「なぐったあなたは30点」
「きっかけをつくったあなたは70点」

というように。

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子どもたちは一応「ごめんね」「いいよ」とは言う。
でも、心の中はモヤモヤしている。
そのモヤモヤを引きずって帰ると「先生におこられた」こぼす。
それってあたりまえのことだ。

トラブルとは「正しさ」と「正しさ」のぶつかりあいだ。
たとえなぐってしまっても、なぐった子なりの「正しさ」がある。
きっかけをつくったとしても、つくった子なりの「正しさ」がある。

それを全面的に肯定してあげること。
つまり、両方に「それは怒って当然だよね」と「100点」をあげること。
それが大切だ。

両方に「100点をあげる」にはどうすればいいか。
それは簡単だ、別々に話を聞けばいい。
トラブルが起きると先生は同じ場所で話し合いをさせようとする。
それがてっとりばやいと思っているから。
しかし、同じ場所での話し合いは
「100点の奪い合い」
になる。

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片方の言い分を聞けば
「ちがうよ、そんなこといってないもん」
「そっちが先にやってきたんだろ!」
というように「100点の奪い合い」がはじまる。
これは不毛な話し合いだ。
話し合えば話し合うほど仲が悪くなる。

別々に呼んで話を聞く。それだけで関係はよくなる。
それぞれに言い分がある。
それを聞いて

「それは腹が立つな。怒って当然だ。」
そう肯定してあげる。

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世界中が敵に見えている子に「共感」という光を差し込んであげる。
すると、子どもたちの怒りはみるみるうちに消えていくものだ。
「世界中が敵」→「理解者がいる」
という発想に転換した瞬間、人は世界に対する攻撃をやめる。
やってみるとわかるのだけれど、世界に攻撃をやめた子は自分の内面をみつめはじめる。

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「でも、ぼくもひどいこといっちゃったからな」
「あそこでやりかえしちゃったんだ」
「その前にいやなことしたからなぁ」

というように。
「そうかぁ。わかったよ。この後先生はBさんから話を聞くから先生があなたのその気持ち伝えといてあげるよ。安心してね。」

そういって、もう1人を呼ぶ。
「大変だったね。何があったのさ。話を聞かせて」
そうしてその子の話を聞き、また「100点」をあげる。

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そして話を聞き終えたら、しっかりと伝える。
「さっきAくんに話を聞いた時、Aくんは僕もこんなことしちゃったからそこは悪かったっていってたよ。そこはAくんもすまないって思っているみたいだね。そこはわかってあげてね。」

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するとBさんからも敵意が消えていく。
そこで「わたしもここが悪かったかも・・・」
なんて言い出す時もある。
そうしたらまた
「そうか、じゃあその気持ちもこの後先生が伝えておいてあげるよ。」
と言う。

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「ごめんね」「いいよ」
なんて言わせなくても話し合いは終わる。
不思議なことにこの後僕の知らないところで

「さっきごめんね。」
「いやわたしもひどいことしちゃった。ごめんね。」

なんてあやまっていることもあるそうだ。(たまに子どもたちが教えてくれる)

僕の知らないところで人知れず謝る。
これってすてきだ。
「ごめんね」「いいよ」を強制しなくても人は心がほぐれれば自然と声をかけあう。それは子どもたちのもつ「自浄作用」だ。

よくあるトラブル。それは

「○○ちゃんが悪口を言っていたよ」
というトラブルだ。誰かの悪口を吹き込む。
すると人は自然と仲が悪くなる。

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僕のしているアプローチはこれと全く逆だ。
「○○ちゃんは素直に言えないけど、すごく悪いって思っているみたいだよ」
「●●くんは、すごくひどいことしちゃった、あやまりたいって言っていたよ」

相手の素直に言えない一言を伝えてあげる。
これがあると人との関係はぐっとよくなっていく。

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先生の役割は「ときほぐす」ことだ。
からまっていた感情をときほぐして、自然につながれる環境をつくってあげること。それが実は一番重要だ。

子どもの心には「自浄作用」がある。
教師が傷口をいじくりまわし、かき乱していはいないか?
その子の「自浄作用」を信じて見守っていく。
その余裕がないと、子どもたちの傷口に塩をぬることになる。

100点をみんなで奪い合うから教育がややこしくなる。
あなたは60点・あなたは40点というように。

「君も100点」
「あなたも100点」
みんなに100点をあげる。
その安心感があると自然に子どもたちは
「100点を120点にしよう」と思い始める。

教育の本質は
「どうするか」ではなく「どうあるか」だ。
先生がその子に何を語るかではない。
どんなまなざしでその子の前に立ち、その子を見つめるか。
それが「どうあるか」ということだ。

人はいっしょに笑った分だけ距離がちかづいていく。
先生と子どもも同じ。
指導という名の叱責は意味がない。
たくさん話し、よりそい、いっしょに笑う。
そんな意味のないくりかえしが、しだいに意味を帯びていく。

100点奪い合いゲームをやめよう。
みんな正しい。
そこから始まる話し合いが僕は好きだ。


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