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個としての存在意義〜太宰治『待つ』について 第十七回

 “少女は誰を待っていたのか?”
 この長い文章の最初の命題に、私は“少女自身”であると結論づけた。今回も、その結論に肉付けを行っていくこととする。

 本作の少女は、戦争が始まってから、いままでの自分に“喪失感”を覚え、そこに“罪の意識”と“使命感”を抱いた。そうして、省線の小さな駅の冷たいベンチに座るという行為に至る。それは“喪失感”を充たすべく“新しい自分に”出会うため。すなわち、それは自分探しのためであった。そのように、前回までで述べてきた。
 もちろん、駅のベンチに座っているくらいで“新たな自分”が見つかるわけがない。もしも現代でそれを行うならば、非常に愚かな行為に違いない。
 しかし、当時は戦時中。しかも女性には参政権すら持たぬほど、社会的な地位が低い。そんな時代に、少女に何ができたのであろうか。
 全てはお国のためという、全体主義にさえ通じる考えへと国は傾いていく。その中で、“個”としての“存在意義”を明らかにすべく、彼女は駅に向かっていたのであれば、その行為は、現代においては称賛に値するものではないだろうか。
 つまり、ここで私は、少女の駅で“新たな自分”を待つという行為、それ自体がすでに彼女の“新たな自分”ではないかと考える。それが“女性の自立”とまでは言わない。ただ、“個”としての自立を意味するのは確かであろう。それを一見、愚かにさえ映る方法で描かれているのだと感じたのである。
 現代とは違い、その思想、言動、情報の範囲が著しく狭められている当時の日本。その中で唯一、自分の存在意義を確かなものにするために、少女ができたこと。それが、駅に赴き、ベンチに座って“待つ”ことなのである。
 作品『鴎』の最後の方に、こうある。

やはり私は辻音楽師だ。ぶざまでも、私は私のヴァイオリンを続けて奏するより他はないのかも知れぬ。汽車の行方は、志士にまかせよ。「待つ」という言葉が、いきなり特筆大書で、額に光った。何を待つやら。私は知らぬ。けれども、これは尊い言葉だ。唖の鴎は、沖をさまよい、そう思いつつ、けれども無言で、さまよいつづける。~『鴎』より

 少女もまた、“新たな自分”に出会うために、駅で“待つ”他はない。それが、いかにぶざまで滑稽に映ろうとも。彼女は自分にできることを、やるしかないのだ。
 但し、ここで言う“待つ”という行為は、決して消極的な意味合いではない。むしろ積極的であることは前述したとおりであり、“人事を尽くして天命を待つ”に近いものであろう。
 また、作品『チャンス』の最後はこう締めくくられている。

庭訓。恋愛に限らず、人生すべてチャンスに乗ずるのは、げびた事である。~『チャンス』より

 少女もまた、ただじっとベンチに座りチャンスを待っているわけではない。失われつつある“存在意義”を取り戻すべく、毎日駅へ赴く。その行為自体が“新たな自分”に変わるチャンスの糸口なのである。
 思えば、太宰治自身も、この“新たな自分”を見出すべく、愚かともいうべき行為に及んでいる。次回は、その辺りに焦点を当てたい。
 本編からは、また少し離れることになるかも知れない。また少し長引くかもしれない。それでも書き続けたい。この文章を書くことが、私自身の“新たな自分”と出会うチャンスなのだ、といいのだが。

#太宰治 #コラム

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