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父と子は、

 俺の父は農夫だった。百姓、と言うほうがしっくりくる。手先は器用だったが、田舎者だから字は書けない。頭の回転も良くない。妻を産褥で亡くし息子の俺と二人きり。年貢は上がる一方で俺たちは抵抗手段を持てず、とにかく貧乏だった。
 六つくらいの時、親父と大喧嘩をした。理由としては心配しているのだが、親父はとにかく俺を叩く。それが嫌で家を飛び出して、適当な棒切れを持ったまま裏山をぶらぶらして夜遅くに帰った。日が暮れて帰ったもんだから俺はまた叩かれた。その日を境に、俺は親父と喧嘩するたびに山へ出かけるようになった。
 九歳くらいの頃、その日もいつも通り山を歩いていた。己の腰まであるような棒切れで紅葉をばさばさ言わせながら、不機嫌を隠しもせずに。そうしたら、都の人間だろうか? 笠を被った身なりのいい大男が岩に腰を下ろして握り飯を食っていた。ああ、白い米だ。羨ましい。うちなんて稗を湯でふやかしながら食ってるのに、と。無意識に俺は大男を睨んでしまった。男が俺の視線に気付いて首をちょいとこちらに向ける。口を動かすのを止めずに男は俺を手招いた。都人がこんな辺鄙な山の、獣道すらないようなところにいるので道でも迷ったんだろうと思った。顔がわかるくらいの距離に近付くと男は声を掛けてきた。
「欲しいのですか?」
俺はその口調から、見窄らしい餓鬼を見て揶揄いたくなったのだろうと見做した。むすりと口をへの字に曲げ、俺は踵を返す。
「あれ、要らないのですか?」
「道に迷ってんなら案内してやろうと思ったのに。熊に食われちまえ」
「そんなこと言わずに。嗚呼、ほら。ならこれは?」
男は懐から飴を取り出す。縁日で売ってる鞠の形をしたやつだ。今まで菓子なんて食ったことない。餓鬼の頃は飴が砂糖の塊だなんてことも知らなかった。
「……」
「飴です。甘くて美味しいですよ?」
「要らねえ」
「あれまあ、随分と嫌われてしまいましたね」
「大人はみんな嫌いだ」
「何とまあ」
俺はそれだけ言って山の奥へ進む。
「おおい、飴は置いて行きますから後でお食べなさい」
男に返事もせず、俺は山で夕方まで遊んだ。

 次の日。一応、男がいた場所に向かってみると飴が置いてあった。見ず知らずの大人の親切を跳ね除けたい気持ちと菓子への好奇心の間で悩み、俺は結局飴を口に入れた。今思えば蟻が入らないようにしてくれたんだろう、巾着の口は固く縛られていた。
「……!」
飴を口に入れて驚いた。甘い、すごく甘い。美味しい。小さな巾着の中には飴はあと六つ入っている。巾着を懐にしまって飴を口で転がしながら俺は棒切れを見つけて山を歩く。都会の人間はこんなにいい物を普段から食べているんだろうか? 幼いながら抱いていた不満が頭の中で明確になる。ああ、うちは金がないんだと。がさがさと紅葉を掻き分けながら道ならぬ道を進む。すると小川に出た。しまった、川の辺りは天狗と熊が出るから危ねえって親父が言ってたっけ。引き返そうか、そう思ったが川に人がいるのを見つけて俺は驚く。昨日の大男だ。棒切れで葉っぱを避けながら男の近くへ歩いて行く。
「おい」
「ん? おお、昨日の坊やではないですか」
「何してんだ。また迷子か?」
「いえいえ、釣りです。君もどうですか?」
「釣り?」
「川魚が肥える季節ですから美味しいんじゃないかと思って」
「……意味わかんねえ」
男の使う言葉は難しく理解に苦しむ。
「釣れたら焼いて食べましょう。君は網で魚を掬ったらいいんじゃないかな。さあさあ」
俺は差し出された網を嫌がって後ずさった。
「嫌だ、この川には近寄るなって親父が」
「ほう、何故です?」
「熊と天狗が出るって」
「ははあ、天狗でございますか。それはそれは大層なことで」
「……意味わかんねえ」
「天狗はいい山にしか住みませんからね、もし本当に天狗が出るならここは良く肥えた土地なのでしょう」
男の釣り糸が引っ張られているのに気付き、俺は糸を指差す。
「糸動いてんぞ」
「ややっ本当だ!」
糸はちょこちょこ動いていた。一際、くっと糸が引いたのを見て男は竿を引っ張った。
「かかったかかった!」
 男が既に釣っていた一匹ともう一匹のイワナを持って俺たちは山を少し下る。枝を拾って薪にし、男が火打石で火を点ける。懐から出した塩を魚に振りかけている男を見て俺は不思議に思った。なんで塩なんか持ち歩いてるんだろうこいつ。しばらく待てばいい臭いが漂い、俺は口の中を涎でいっぱいにした。
「ま、まだ!?」
「まだまだ。内臓を焼かないと食あたりを起こしますので」
「しょくあたり」
「お腹を壊すんですよ」
「それは嫌だ」
「嫌ですよね、なのでもう少し待ちましょう」
男は魚が焼けたか枝で抉って中を確認する。一匹を俺に渡し、自分も串を持った。
「焼けましたね。さ、頂きます」
俺は頂きますなんて言えないし待てない。飯は座った奴がさっさと食って食い終わったら仕事に行くのが普通だったから。がっつり魚に噛み付いてその熱さに慌てる。
「あっち!」
「嗚呼、一度にたくさん口に入れるからですよ。それ、ふうふうしてご覧なさい」
男の言う通りにしてふうふう息を吹きかけてから齧る。美味い。魚なんて久しぶりに食った。塩漬けじゃなくて振りかけただけの塩だから辛すぎるなんてこともない。俺は夢中になって食って、あっという間に食べ切ってしまった。男は懐から白い握り飯を出し、自分が食べ終えていないイワナの腹子を枝で作った即興の端で解して握り飯の中に入れる。
「はい、お握りですよ」
「魚の卵入れたのか?」
「美味しいですよ。さあさあ」
親切がどうのとかを俺は一切忘れて、食欲に従い受け取った握り飯に齧り付く。
「美味い!」
「そうでしょうそうでしょう」
男は持っていた握り飯三つを全て俺にくれた。相手の分なんて考えず、俺はイワナ入りの握り飯を全て平らげた。米粒でべたべたの手で口周りを拭こうとすると男が止める。
「これ、余計に顔が汚れますよ」
男は竹筒の水筒から水を手拭いに染み込ませて俺の口と手を拭った。奴の細くて白い指を見て俺は羨ましくなった。土で汚れない手なんて、こいつは一体どんな生活をしているのだろう?
「なあおっさん。あんた都の人なんだろ?」
「おっさん……私はまだ若いです。都人ではないですねえ」
「え!? 違うの!? 商人だろ!?」
「商人でもないですね」
「ええ!? 白い飯食ってるのにか!?」
「ああ、白い飯は手に入りますが自分や家族で育てているのです」
「じゃあ百姓なのか? うちと一緒? 百姓なのに手が白いのか?」
「私は忍びなのですよ」
忍びと聞いて俺は思わず距離を取る。人殺しだ! そう思った。
「私は色々な場所へ行き、色々な話を聞いて主人の元へ帰る。そう言う生活をしています」
「……話を? なんで?」
「本当に殺すべき者なのかを最初に調べるのですよ。殺さなくていいならその方がいいでしょう?」
「ん、そう、なんだ」
進んで殺しをするわけじゃない、殺しが好きなわけじゃないんだ。そう思ったら怖さは引っ込んだ。そうだ、飯だってくれたし。
「なあ、飴さ」
「嗚呼、昨日の飴ですね。持って帰りましたか?」
「今持ってる。これ、返す」
「おやどうして? 気に入りませんでしたか?」
「……持って帰ったら親父にどこから盗んだんだって殴られる」
父親に辛く当られていると知って、男は一度黙る。
「……いつも殴られるのですか?」
「親父は言うこと聞かなかったり生意気だとすぐ殴るよ。だから飴返す」
「……わかりました。では、明日もここに来ます。その時に次の飴を上げましょう」
「明日? 明日も、いるのか?」
「何日かこの近くで調べ物をしているのです。だから、帰るまでは毎日君に会います。ね、いいでしょう?」
「うん、いいよ!」
「では明日も来ます」

 男はキョウと名乗った。俺は村の子供の輪からこっそり抜け出し次の日もその次の日もキョウに会いに行った。一緒に魚を釣って食ったり山で果物を摘み取って食ったりした。いつも山を歩いているのに俺は食う物がたくさんあったなんて知らなくて、キョウに色々と教えてもらって嬉しかった。ヨモギは餅に混ぜて食ったりも出来るけど薬草だから傷に貼ってもいいんだとか、ドングリは灰汁を抜けば蒸して握り飯みたいに出来るとか。手はよく洗えとか、手が汚れてるなら傷は触るなとか。
 四、五日は彼と過ごしただろうか? 俺はまたいつも通り山へ行った。村の子供が遊びに誘っても参加しない俺の後をついて来ているのも知らず、キョウに手を振る。
「おーい! キョウ!」
「やあ」
彼は片手を上げ、俺のずっと後ろにいた子供たちに気付いた。
「……友達を連れて来たのですか?」
「え?」
俺は振り返って驚いた。四つとか三つくらいのチビたちが慌てて草っぱに体を隠す。
「お前たち! なんで来たんだ!」
「だって梅太が遊んでくれないんだもん!」
「馬鹿! 親父とお袋たちに怒られるぞ! 山に入ったらいけないって!」
「梅太だって入った!」
「俺は用事があったから!」
「こらこら、喧嘩をしちゃいけませんよ君たち」
「この人だあれ! 知らない人が山にいたらいけないんだよ!」
「私はキョウ。今知り合ったから、もう知らない人じゃありません。ね?」
「え? えー、そうなの?」
「はい、君と私はもう知っている人です。お友達ですよ」
「うーん、じゃあいいか。友達になったげる」
騒ぐ子供を口だけで丸め込むのは流石忍びと言ったところだろうか。キョウは俺だけじゃなくて付いて来た村の子とも一緒に山で食べ物を取ったり拾ったりしてくれて、俺たちはそのまま帰った。
それがいけなかったんだと思う。すぐに村の子と一緒に帰ればよかったんだと思う。村の子は、山に入って山桃を食ったことを親に話してしまった。そんでその話はすぐ俺の家にも飛んできて、案の定親父は俺を叩いた。今まで以上に殴られた。俺は、黄昏時に家を飛び出した。
 山に入ると、辺りは暗くなって来ていた。不思議なことにキョウはまだ同じような場所にいて、薪の側で俺を待っていた。殴られて腫れた顔をした俺を見てキョウは険しい顔をしている。彼は俺の親父に怒っていたのに、俺は自分が怒られていると思って立ち止まった。
「ごめんなさい……」
キョウはゆっくり歩いて来て俺の前にしゃがんだ。
「梅太郎」
キョウは優しい顔をしてた。いつもの笑顔だ。
「ねえ梅太郎、私の子になりませんか」
「え……」
「だって君、たくさん叩かれたでしょう? 嫌じゃありませんか?」
「……でも、それは俺が言いつけを守らなかったから」
「言いつけを守らなくても、怒るとしても、殴らない方法は幾らでもあるのですよ梅太郎」
「ん……うん」
「梅太郎」
「……なに?」
「私のこと好きですか?」
「好き……だよ。だって、キョウはいっぱい色んなこと教えてくれるもん。ぶたないし、ご飯だってたくさんくれるもん……!」
俺は堰を切ったように涙を溢す。
「俺やだ。いっつも腹減ってるのやだ、お菓子食えないのやだ。ぶたれんのもやだよお」
キョウは俺の背をとんとんと叩く。彼は懐から普段握り飯を包んでいる竹皮の小さな包みを俺に差し出す。だがすぐには手渡さず、俺の顔の前に掲げる。
「梅太郎、これは忍びの作った眠り薬入りの芋団子です」
「え」
「もし君が私の子になると決めるのであれば、これを持って家に帰り、お父上に食べさせなさい」
「ええっ」
「お父上を揺すぶってみて、すっかり寝ていたら私の元へ戻っておいで。私は待っていますから。芋団子を渡す時は私からの詫びだと言って渡しなさい」
「で、でも……」
「君がお父上の元に残るなら、私は明日の朝そのまま故郷へ戻ります。本当は昨日帰るはずだったのですが、君が心残りだったので……」
俺はどうしようか悩んで、でも芋団子を受け取る。
「あ、あげなかった時はどうしたらいい?」
「その時は芋団子はかまどの中に入れて燃やしてしまいなさい。他の誰にも上げてはいけません。自分で食べるのも駄目ですよ?」
「う、うん」
「梅太郎、君はここ数日きちんとお腹いっぱいご飯を食べていますから我慢が出来ます。でもお父上は違います。お腹が空いているはず。それに食べ物を粗末に扱うのを極端に嫌うお人です。なので渡せば、恐らく口に入れるはずです」
「うん……」
「でも梅太郎、子は親を思うものです。だからきっと私かお父上を選べと言われて今困惑していると思います。それも私はわかっています」
「うん」
「でもね梅太郎、私は君を殴りませんし君にしっかりご飯を食べて欲しいのです。私は私なりに君を大事にしたい。だから今はお父上から距離を取ってほしい。戻りたくなったら帰ればいいだけですから」
「うん……」
「さ、お戻りなさい。私がお父上に謝っていたことはしっかり伝えてね」
「ん、わかった」
言われた通り家へ戻る。とっぷりと日が暮れ真っ暗な中、家の明かりが見える。親父はもちろん帰って来た俺を殴った。しこたま殴られて、俺の持ってた包みを見たらもっと殴った。俺は殴られながら会っていたよそ者が詫びに持たせた芋団子だと説明した。食い物とはわかっていたらしく、親父は仏壇のお袋に芋団子を供えた。
俺は寝たふりをして待った。夜中、起き出した親父が小便へ向かう。あいつは戻って来て、仏壇の前で何か考えていた。食え、食えよ。芋団子を食っちまえよ! 俺は布団の中から親父を睨んだ。あいつは悩んで、四つのうち二つを食べた。多分、残りは俺に取っておいてくれたんだろう。やった! 親父が布団に入って、酷いいびきを掻き出してから俺は彼の身体を何度か突いた。顔を軽く叩いてみたりもしたけど、起きない。着物を重ねて着込み、家の外へ。キョウは、家のすぐ近くで灯りを持って待っていた。暗がりに笠を被る大男が立っている。俺は静かに彼の元へ駆け寄った。
「お父上は芋団子を食べましたか?」
「二つ食べたよ」
「二つ、成る程」
キョウはしゃがんで俺に灯りを持たせた。
「梅太郎」
「ん」
「私の元へ来ますか?」
「うん、行く」
「もし迷っているなら今すぐ引き返しなさい」
「迷ってない」
俺はしっかりとキョウの顔を見返す。彼は俺の決意に満ちた顔を見て目を細めた。
「梅太郎、引き取るからには私は本当のことを君に言います」
「なに?」
「私は人ではありません」
俺は目を見張った。でも、既に何となくわかっていた気もする。だって幾ら忍びでも、“足音が全くしない”なんておかしい。
「この辺りに天狗の噂があるのは、私のせいなのです。私が天狗と勘違いされているのです」
「……天狗なの?」
「いいえ、私は蜘蛛です」
「蜘蛛? 虫の?」
「はい。腕は六つ、脚は二つ。それが私の本当の姿です。だから梅太郎、もう一度聞きます。私の子になりますか?」
「……うん」
俺は真っ直ぐ彼を見た。そうして、手を差し出す。
「連れてって」
キョウは、親父殿は微笑んだ。
「では参りましょうか」

 親父殿は俺の手を引いて山の奥にある不思議な道を抜けて行く。歩いた距離からしてまだ山の中のはずなのに、いつの間にか大きな寺のような建物がある、大きな町に足を踏み入れていた。横にいる親父殿を見上げれば腕は六つ。肩から肘は透けていて、足の付け根も見えない。白と黒の、変わった格好だ。裾が広い布を腰から流していて、袖は肩までしかない。
「夜ですからすぐ寝ましょうね、梅太郎」
「うん。……でも俺腹減った!」
「ええっこの時間にですか」
「うん!」
「困りましたね……。あ、いやあれがあったな。では夜食にしましょう」
「ん!」
親父殿は静かに一番大きな寺に入り、俺を腕に抱えてすいすいと厨房へ入る。腕に残り物の白飯を盛り付け、焼き魚を解して乗せる。何だろう、小さい。イワナじゃなさそうだ。俺の視線に気付いて親父殿はちょっと屈んだ。
「イワシですよ」
「ふうん?」
彼は俺の口に一匹イワシを突っ込む。美味い美味いと頬張っていると何やら白飯の上にかけて、それを盆に載せ俺を連れて畳のある隣の部屋に動く。盆を差し出された俺は驚いた。だって飯の上にかかっていたのは茶なのだ。
「何だこれ」
「お茶漬けです」
「お茶……お茶って、茶? 緑の?」
「そうです」
「しし白い飯に茶かけて食っていいの!?」
「美味しいですよ?」
「だって茶って殿様が飲むんだろ!? え!? 俺食っていいの!?」
「早く食べないと冷めますよー」
俺は茶碗を持ち上げる。茶碗に並々と緑茶が注がれていた。こんなに飲んでいいのだろうか、そう思いながら啜る。美味い、なんて美味いんだろう! 俺は夢中になって食べた。白飯だけだって美味いのに、なんて美味い食べ方があるのだろう。親父殿は俺がすっかり平らげた茶碗にたくあんを一つ入れた。
「たくあん漬けで茶碗を綺麗にすると、一粒残さず食べられるのですよ」
「そうか」
茶碗を綺麗にして、たくあんを口に入れる。ポリポリといい音がする。
「ああ、美味かった」
この時、俺は陽のように笑っていたと後で親父殿は言った。
「お腹が落ち着いたら寝ましょう」
「うん」
親父殿の隣で大きな布団で眠った。手足を伸ばしても壁に届かない大きな部屋を寝転がりながら、俺は朝までぐっすり眠った。

 日が高くなってから目が覚める。寝坊したと慌てて身体を起こして、天井がいつもと違うことを思い出す。
「あれ……ああ、そっか。家出したんだっけ」
ぎゅうっと腕を上に伸ばす。キョウ、親父殿の部屋には書棚や長机があり上には紙束が載っている。字が書けるんだな、と思って机を見ていると親父殿が部屋に戻って来る。
「おや、おはようございます梅太郎」
「おはようキョウ!」
「着替えを持って来ました。よく眠れましたか?」
「うん、寝坊したと思って慌てた」
「はっはっは、そうですか。大丈夫ですよ、まだ朝方ですから。さあ、着替えて私の仲間に顔を出しましょう」
「仲間?」
「忍びの仲間ですよ」
「蜘蛛の忍び……?」
「そうです」
寺には色んな男や女がいた。みんな腕の数や足の数、身体の形が人とは違ったけど。新しい人に会うたび挨拶をする。親父殿はまだこの時俺を本当に自分の子にするつもりはなかったらしく、数日はひたすら飯を食わせ、手伝わせるにしても部屋の掃除や片付けに留めていた。
 親父殿のところへ来て三月(みつき)くらい経っただろうか。俺は日の出と共に起きて寺の中の掃除をこなしていた。親父殿は夜中から仕事でようやく戻って来る。親父殿の服には彼の物ではない血が付いていた。
穢れを落として着流しに着替えた親父は俺を呼び出す。部屋に戻ると、親父殿は胡座をかいて待っていた。
「梅太郎、お前に改めて話があります」
「うん、なに?」
正座をして俺たちは対面する。
「お前、元の家へ帰る気はありますか?」
「ないよ」
「本当に?」
「なんで? だって戻る理由ないよ。クソ親父の顔なんか見たくない。ここに来て気付いたんだ。叱るんだって怒るんだって何だって、打つ必要なんか本当はないんだ。でもクソ親父は打たないで済む方法すら知らない。それは学がないからだし、百姓しか生きる方法がないからだ。帰りたくない。キョウのところにいれば筆も覚えられるし、漢文だって読める。俺もっと色んなことしたい」
「……左様か」
「うん」
「もしお前が本気で私の息子になるなら、新しい名を与えようと思うたのです」
「名前? どんな? 格好いいやつ?」
「新たに付けるならば、漆丸と」
「うるしまる? うるし?」
「漆とは、茶碗の外側を覆っている塗料のこと。漆は何度も塗り重ねます。お前がたくさんの経験をその身に重ね、いつか良い大人に成れれば嬉しいと、そう言う願いを込めてこの名をお前に付けたいのです」
「漆丸か……うん、いいね。キョウの……親父の好きにしてよ。その名前、俺好きだよ」
「……そうですか」
親父殿は八つの目で微笑んだ。
「では漆丸。新しい名を皆に紹介して、我が主の元へ顔を出しましょう」
「御所様のところに?」
「ええ、そうです。蜘蛛様にお前を私の息子と紹介させてください」
「……うん!」
俺と親父は手を繋いで、部屋の外へ出た。


 懐かしい夢を見たなと思い出に浸りながら、俺は夜の見張りから戻って来る。小腹が空いたのでなんか食おう。厨房へ行くと親父殿が握り飯に醤油をつけて焼いている。
「あーあ、途んでもねえいいニオイ」
声をかける前にとっくに気付いていただろうに、親父殿は暖簾を潜った俺に振り向く。
「おお、漆丸。お前もどうですか?」
「焼き握り?」
「いいえ、焼き握りの茶漬けです」
「うわ、そこから茶漬けにすんの? 手間かかってんな。食う食う」
「そう言うと思ってもう次を握っています」
親父殿は六本の腕を器用に動かして茶漬けを三人前用意している。
「誰かに持ってくんか?」
「散梅殿のところへ。また徹夜で書類作業のようなので」
「あの方もまぁ随分仕事を詰めるよな」
「彼は今特に忙しいですからねえ……」
三人前の膳を持って俺と親父殿は廊下を歩く。廊下から外を見る。もう時期紅葉が落ち、冬が来る。俺は故郷の山を思い出す。あの川でイワナはまだ泳いでいるだろうか?
「うるちゃーん」
「……うるちゃんは止めろ」
親父殿と食べたあのイワナの味は一生忘れられねえだろうなぁ。そう思いながら、俺は足を踏み出した。


逢魔時の者、『父と子は、』・完

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