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週末飲んだくれ仙人

たのしいという感覚を信用しなさすぎて、たのしい感覚を忘れてしまった。もったいなさも感じるけれど、それもまぁいいかと思っている。どういうことか。
感情は襲ってくるもので、自由自在にあふれさせることはできないものと認識している。ある程度はコントロールできるのかもしれないが、最初の発端はとつぜん向こう側からやってくるように感じる。週末はいつも地元の友人と飲んだくれているのだが、つい先日もコンビニで酒を買って夜風にあたっていたら、急にたのしい感情がわき上がってきてびっくりした。ひさしぶりに暴力的にたのしさを感じたので「へぇ~」と思った。そして、「たのしいと思っているなぁ、わたしよ」と思うと、どこかでアラートを鳴らす自分もいて、「調子にのるんじゃないよ、わたしよ」と諌めるのだった。

昔はたのしければ正義のように考えていた。たのしんだ者勝ちだと。だけど、たのしさとはなんだろう。ある種の身体の状態を指すのか、脳内の化学反応のことなのか。たのしいが正義であれば、四六時中ラリっている人間が正義ということにならないか。そんなものは、たのしくないとはっきりいえる。むしろ、たのしさのうちにあるラリってしまう要素と、自分自身の人生がどのような関係性を持っているか。ラリってしまう自分がどのように社会や環境と調和しているか、あるいはしていないか。そこに表現される個人の具体的なあり方、生き方にこそ、たのしさや正義の本質があるのではないか。
いいかえれば、たのしさとは、そのような感情や感覚の制御を含めての一連の営みに対して冠されるべきある種の評価であって、物質的な要素に還元され得ない。もっといえば、たのしさは複雑に構成されるべきで、感情や感覚を爆発させる瞬間芸に名付けるべきではない。なぜなら、そうした状態は一瞬たのしいかもしれないが、あとになってたのしくないと思ったりするからだ。よくある話だ。
しかし、それは裏をかえせば、瞬間的なたのしさというのはたしかに存在しているということでもある。大事なのは、そうした瞬間に対する受けとめ方、ながし方にあるのではないか。
美しい花が目の前に現れたら、どうするか。むしり取って胸にかきいだくか。それとも、心にとどめて、さらりと受けながすか。どちらがよりこの世界をたのしんでいるだろうか。別に競争しているわけではないのだから、どちらでもかまわないのだが、たのしさをより手中に収めたほうがこの世は勝ちだというなら、そんなゲームはたのしくないし、見ていてイヤな感じだ。それくらいはいいたくなる。
だいたい何がたのしいのか事前に分かっていたら、たのしくない。だから冒頭に「感情の発端はとつぜん向こう側からやってくる」と書いた。予想できないからこそ、たのしいのだ。
だから受けながす。受けながしつつも心にとどめる。あ、たのしい。たのしかったかも。それくらいのほうが、私はたのしい。

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