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Carpe diem

おはようございます。振本です。
就職活動も昨日、解禁となったようで、Twitterの広告は「シュウカツ」の情報で一色になってきました。私も「新卒」というカードを持ちながら、あれやこれやと考える時期を過ごしております。
SNSもあらゆる情報が流入してくるし、両親からはありもしないような杞憂をされるし、企業のエントリーページも私のIPadのクロームではいっぱい遷移し、目移りするようになってきました。

さて、そんな時だから考えたい言葉があります。”Carpe diem”という言葉。ギリシャ語で「その日をつかめ」と言った意味になるようで、私はロビンウィリアムズ主演の「いまを生きる(Dead Poets Society)」という映画の中でよく教師や生徒が発していた言葉で、ずっと印象的に心の中を残っています。

劇中では、厳格な学校と自由を求める生徒がわかりやすく描かれ、その生徒の背中を思いっきり”Carpe diem!”と押す国語教師、ロビンウィリアムズ。といった構図になっていました。学校から抜け出して、生徒が恋をするとか、詩を読んだりとか、劇をやるとか、生徒自身死んでしまうとか、親と対立するだとか。いろんな「思春期」に襲いかかるような事柄を一つの映画におさめたような作品となっており、とても良い作品だったと思います。作風が真っ当でとってもすっきりしました。

私はここから思うのは、今の”Carpe diem”のあり方を考えてみたらどうだろうかということでした。もちろん、将来に石を投げる、ビジョンを考えることは大切です。将来の見えない糸を眺めることで、改めて正しい方向へ手繰り寄せることができるし、じっと考えることはとても大事なことのように思います。
けれど、私が言いたいのは、この大事に思うとか、今私がこのように文章を書いている、今を感じることをもっと心理的に受け入れてあげるべきなんじゃないかなと思うのです。言い換えれば、今はどちらかというと見失いがちになっているのでしょうか。


“Carpe diem”を見失いがちにしてしまうのは、LineやTwitterといったSNSだと思っていて、SNSのタイムラインはあくまでも「常に過去を見ている」のであって、決して実際に「その場で夕日を見る」とか「その場で写真を撮る」とか「その場でものや機会を作る」といった共感覚を伴う行為とは異なるのではないでしょうか。リプライを飛ばして送ることも、本質的な意味で決して、共感覚や同期性を伴う行為ではない。私は、SNSを批判しているんじゃなくて、SNSをツールとして使うこと、過去を見るのだから、当然今とは違う。伝える内容にも当然ズレができる。ズレができる前提で、それさえも楽しめるくらいになったらいいんじゃないかなと思います。

じゃあここで、SNSが一番何をできることを可能にしたかということを考えてみます。私は、「達観・俯瞰できる」ことを容易に可能にしたと思うわけです。Social Network Serviceは、社会の見えない糸をわかりやすく具現化したみたいな曼荼羅のような空間だとも言えるかもしれません。


最近、私たちの世代はゆとり教育の影響もあって、「悟り」世代と呼ばれますが、果たして本質的な意味で悟っているのでしょうか。私たちの世代は若いのだから、もっと今を生き、ぶち当たったらいいと思うし、私はそのような心意気でいたいです。達観することは大事だけど、もっと花と虫の関係みたいに主体の自分と行き来することが大事なんじゃないかなと思います。
しかし、達観・俯瞰が比較的容易にできるようになった世の中には改めて感謝したいです。YouTubeやSNSの充実によって、達観できるツールが世の中に出てきたことは、テクノロジーって素晴らしいし、自分も従事して、誰かに伝えたいな、と未熟な私ながら思うわけです。よりFacebookで議論もできるようになって、専門性のある方に素直に質問ができるようにもなった。

とっても素晴らしい世の中になりましたね。ぶつかっていきましょう。

以上。

この文章からも分かるように、揺られながら過ごしていますし、一貫性やわかりやすさを求めて書いていませんが、最近思ったことをバーっとまとめました。

最近、小説っぽいのか詩なのかわからない文章を書きました。

Twitterも置いておきます。


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