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子育てと男性的価値観

子育てに男性的な価値観が入ってきていることが、親にとって子育てをしんどくしている理由じゃないかと思う。この場合の男性的な価値観というのは、社会において出世を大事にしたり、より稼ぐとかそういった競争を好むことのことを言う。

現在の、子育てを取り巻く環境を考える時に、よくわからない部分がある。それは、行政的な支援(保育環境の充実、医療費の無料化、病児・病後児保育など)が充実していきているにも関わらず、どうも子育てをしている親世代がしんどさを抱えているように感じる。

もちろん、そこには待機児童、労働環境、経済的負担など支援が行き届かない部分の影響もあるが、それだけでは実感として、どうも納得できない”しんどさ”というものがある。

ボクらのさらに親世代からみると「わたしらの時より、旦那も子育てに参加しているし、家電も充実しているし、なんでしんどいの?」と感じる部分だ。

ぼくは、”子どもが、ほっとできる場づくり”を市民活動として5年行うなかで、いろんな親と出会ってきた。いわゆる、生活保護であったり、片親であるという方と出会った時に、その生活を聞くと、これは個人の責任ではもちろんなく、いまの社会が変わらないといけないなと感じることがある。なんで、こんなにしんどい思いをしないといけないんだと、憤ることもある。

さきほども書いた、労働環境で言えば、片親の人の中には非正規で働いている人がおり、どんなに働いても収入が生活や本人が必要とする金額に対して少ない。そのために、週末も働いたりする中で子育ても、一人で行うという生活を聞くと、いまの労働環境、または、片親への行政の支援が圧倒的に足りていない現実を知ることになる。

そういった親の話を聞く一方で、両親共働きで、保育園に日中は子どもを預ける、そして休日は両親ともに基本的には休み。両親ともに、子育てを大事にしている、朝は一緒にご飯をたべ、夜も「きょうは、仕事遅くなるから家のことお願いね」とお互いに役割を決めながら、子育てを行なっている夫婦の話も聞く。ボクらの親世代から見ると、楽になったねと思われるような生活をしている。

お互いパートナーに不満を持っていないし、それなりの生活をしているんだろうなっていう人たち、そのみんなが、なんとなく、しんどさを抱えているように感じる。

そのしんどさを誰かに説明しようにも、本人にもなんで私しんどいんだろう?まわりには、私よりももっとしんどい生活をしている人もいるのに、と比べると、自分のしんどさを申し訳なくなるようなしんどさ。そういうものを抱えている人がいる。

そんな人たちが、”子どもたちがほっとできる場”にくる。ここにくる親たちは何回かくると「ここにくると、ほっとできる」「家にいるより、ゆっくりできる」「これでまた1ヶ月がんばれるわ」と言ってくれる。ただ、ボクのしている場所というのは、”ただ開けているだけ”で何もしていない。イベントもないし、きている人をお客様あつかいをすることもない、みんなが自分のしたいことをしている。

その代わりに、他人のしていることに口を出すこともない。子どもたちはそんな環境にいると、自分のしたいことをしはじめる。最初は周囲の大人や親の顔色を伺って遊んでいるが、だんだん「ここは何をしてもいいんだ」ということがわかってくると、自分のしたいことを自分で考えながら行う。最初は親のまわりにいた子どもも、周りの子どもや他の大人と遊び出す。

大人たちも同じだ。最初は周りの大人たちがなんて思うかなと気にして、その場で「なんなん?あの人」とおもわれないような行動をとる。例えば、ご飯の手伝い、片付け、その場にいる子供への注意などをしてくれるんだけど、しばらくすると、その中で自分がそんなにしたいことではなかったことをしなくなっていく。そうして、スマホをずっと見ていたり、本を読んでいたり、ぼーっとしていたりと好きなことをして時間を過ごすようになっていく。

そういう、なんでもない、自分の本当のしたいことをしている時間を重ねていくと「ここに、くるとほっとできる」と言ってくれるようになる。そういう大人や子供と一緒に過ごす時間はとっても心地いい。

でもね、いまの社会ってそういうのを許さない社会になっている。

ぼーっとしていると、「勉強しなさい」「片付けしなさい」「その時間を何か意味のあることに使ったら」と実際に言われることもあるし、無言でもそんな圧力を感じる。そんな圧力は子供の方が強く感じている。

大人の価値観で意味のないと思えることは、どんどん排除されていく。街の中に昔のように空き地がなくなっている。公園もいちいち、意味のあるものを置こうとする。ブランコとか滑り台とか、ジャングルジムとか、そういうのがあるほうが子どもの発育にいいと思っているのか、何もない公園、空き地がなくなっていく。

ぼーっとしている時間があったら将来に役立つようにと、ピアノ、塾、習い事を毎日のように子供は放課後に入れられている。学校が終わったら、習い事に行き、家に帰れば宿題をして、ご飯を食べて、寝る。彼らの生活の中には無駄とか、余白というものが存在しない、。ぼーっとする時間をどれだけ無くせているかを競っているようだ。

その子供に向けられている”無駄をなくす”という視線は、もちろんボクたち大人どおしにも向けられている。

無駄をなくすというのは、いい価値観に思えるから、やっかいだ。これが誰もは聞いたら「それ変でしょ」と思えれば変えることもできるが、”無駄をなくす”というのは一見いいことに思えるし、企業なんかいかに無駄をなくすかを考えてきていた。

ぼくが、最初に就職した製造メーカーはまさにそうだった。原価を下げるためには無駄を徹底的になくすことを考えていた。この部品をどこに置くことでスタッフの動きが少なくて済むか、発注するタイミングを他の部品と合わせることで、輸送コストを抑えたり、日々無駄を削ることを考えていた。もちろん、企業、いまの資本主義社会でそれが不要なことだとは思わないし、それをしないと企業の利益が出ないこともわかっている。しいては従業員である僕らの給料が払えなくなることもわかっている。

でも、それは資本主義社会、その中での企業に当てはめられる考えであって、それを僕らの生活にまで落とし込む必要はない。さらに、それが僕らの生活にまで入り込んできていることが、しんどさの原因になっているとボクは考える。

ボクらの生活は無駄が必要だ、とくに子育てに関してはそう思う。というか、子どもが生まれて、さらに”子どもがほっとできる場づくり”をしていてそう感じる。僕らが無駄ものと感じることをしているときほど、子ども達は嬉しそうだ。

ここでボクの言う無駄というのは、いまの資本主義社会で不要だと言われるものだ。時間をかけるもの、人手をかけるもの、やりなおすもの、アウトプットで判断できないもの、何かと比べられないもの、何も生み出さないもの、もしくはそう思えるもの、そういったものを無駄なものという。(ボクの定義だ。)

子どもの時間はそういったものにあふれている。例えばね、

時間をかけるもの

子どものすることは時間がかかる。料理1つをとってもそうだ、大人がすればあっという間に終わるもの、例えば目玉焼きを作ることだって子どもは時間がかかる。まず、卵を割れないなら割り方を教えることになる。その卵だってフライパンにこぼさずに入るとも限らない。

そして、1つ1つの動きもとってもゆっくりだ。僕ら大人がやれば、あっという間にできるものを時間をかけてやっているときの子ども達はうれしそうだ。もちろん、目玉焼きができることも楽しみなんだけど、それをやっている過程そのものを楽しんで知る。

やり直すもの

失敗はつきものだ。企業では、一度の失敗を次は必ず繰り返さないようにシステム化する。でも、子どもにとっては失敗を繰り返すこと自体が遊びになっている。「また同じこと失敗して」は企業では許されないが、子どもには許されるべきことだし、喜ぶべきことだ。だって、こどもは、その失敗を通じて学んでいく。

「こうやったほうがいいかな?」「あれ?でもまた上手くいかなかった」「じゃあ、こうやろう」「やった!できた」こんな試行錯誤の時間は子どもにとって何かができることよりも大事なものだ。ぼくら大人はあまりに、失敗をさせられないようになっている。

アウトプットで判断できないもの

子どもが作り出したといえるものがあったとして、それをお金で判断はできない。僕らであればインプットに対してどれだけアウトプットができたかを要求されるし、少ないインプットで大きなアウトプットができれば褒められてたりもする。いま文章を書いていることだって、どこかでアウトプットという視点で考えてしまうことがある。(書くこと自体が楽しいから書くはずなのにね。)

でも、こどもたちには関係ない。アウトプットもすぐに壊す、時間をかけて作った砂場の城も次に作りたいものや、他の友達と別の遊びをするためになら簡単に壊す。アウトプットがすぐにインプットになっている。ボクは、この文章を書き終わった時に納得しなかったら消すのかなあ、きっと残して投稿するんだろうな。

何かと比べられないもの

資本主義社会では、他と比べてどれだけの差異があるかが大事になってくる。もしくは、その差異がどんなに小さくても、その差異が相手に伝わることが大事になってくる。でも、こどもたちのしていることは、そんなことを飛び越えている。こどもたちは、自分が本当に誰にも言われずに作ったり満足したものを誰かと比べることってほとんどしない。

彼らは、できたものを見せたい人(親など)に見せて、それで満足しているし、そこで周囲の大人が「○くんより上手だね」と比べても別に嬉しそうにはしない。僕ら大人が中途半端に声かけをすると人と比べる。誰かと比べているときは、ボクら大人の声かけが間違っているんだと反省させられる。

何も生み出さないもの

2時間かけて犬小屋を作っていたけど、結局できませんでした。は子どもの遊びではよくある。でも、企業だとそれは許されない。あらかじめ、ゴールが見えていることしかできない。その価値観で子どもの遊びを見てしまうと、2時間かけて何もできなかった犬小屋は無駄なものになる。でも、繰り返し述べているが、子どもにとってはそれを作っている時間そのものが楽しいのであって、できたかどうかって全く重要ではない。大人が「できなくって残念だったね」と言っても子供は全然そんなことはない。

そんなふうに、子育てに僕らが社会に出て身につけた価値観を押し付けてしまうことが常にある。注意していないと、子どもに大人の社会の価値観を押し付けてしまう。でもね、子育てから無駄を排除するとどうなるか。こどもが、楽しそうじゃなくなる。子どもは大人が無駄だと思えるものほど楽しそうにしている。

子どもが楽しそうにしているかどうか、楽しそうにしていないと大人の価値観をぶつけていると思っていい。

男性的な価値観は”こどもの楽しい”より他のものを大切にする。競争を勝ち抜くためには、”無駄なもの”をなくしていき”楽しい”という気持ちを大事にしない。でも、子育てというのは、競争では、ないがしろにするもので、あふれている。本当にそれしかない言ってもいい。そして、それを楽しめた方が、子育ては楽になる。

仕事だって、楽しめた方がいいじゃないですか。

そんなことを言うと、あんたみたいにもう企業で働いていない人が言うなと言われるんだろうなって思う。でもね、ボクは怒った顔、難しそうな顔をして過ごすよりも、笑顔で、無駄を楽しめるような余裕のある毎日を送りたいんです。

まわりにいる子どもたちに笑顔で過ごして欲しいんです。だって、子どもたちが楽しそうに過ごせない社会なんておかしいでしょ。いまの社会のひずみを子どもたちが浴びているから笑顔じゃなくっているんです。

企業や仕事して、男性的価値観をバリバリにだして、競争しまくってもいい。でも、それを子どもと一緒にいるときは出さないでほしい。そして、そういう場にいる人は自分でも無意識に子どもに、競争的な価値観を植え付けていたり、そういう態度で接していることに気づいてほしい。

笑顔の子どもたちっていいじゃないですか。笑顔のこどものまわりでは、大人も笑顔になれます。


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妻と1男2女と暮らしています。その傍ら「誰もがまるごと受け止められる社会」をつくりたくって「場」づくりをしています。1983年京都生。滋賀県在住。NPO法人わっか共同代表。編みものが好き。
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