見出し画像

甘酒と怪物

 クーラーの音がうるさい。その割に効いていない。
 低層マンションの2階、西側に面した私の部屋は、やはり8月の午後は仕事にならない。大窓には遮光カーテンを引いているが、その隙間から射してくる陽光が気になって、ディスプレイを見続けながらも私は今日いく度目かの舌打ちをした。
 幸い仕事はある。あるが、納期か金額か、あるいはその両方が碌でもないものばっかりだ。それでも会社というものに所属していない私は、自分自身をなだめすかしてやっていくしかない。
 分かってはいるものの、また外から聞こえ始めた物音に、私の勤労意欲は削がれてしまう。ぬるい麦茶を飲みながら、他の用事を先に済ませてしまおうと思った。
 玄関の脇に置いた梱包物は、取引先から来た郵送物の封筒を再利用したものだ。それを昨日の買い物で貰ったビニールの手提げ袋に入れる。
 不要になった本は、フリマアプリで出品して家計の足しになることを期待している。そのうち1冊を欲しいという買い手が、昨夜久しぶりに現れたのだ。
 こういうものは早めに手配しておくに限る。郵便局に持ち込んで発送し、隣の喫茶店でコーヒーでも飲めば少しは気分転換になるだろう。

 きわめてぞんざいな出で立ちでマンションの自動ドアをくぐると、熱されたアスファルトの臭いが鼻をついた。同時に私を苛つかせる音源が現れる。
 なぜ、よりによってこんな暑い時期、暑い時間帯にアスファルトの敷き直し工事などするのか。騒音の中に悪態を小刻みに混ぜ込みながら、通りの方へと向かいだした。
 日に焼けた工事の従事者たちのうち2人は、しょぼしょぼとした振る舞いの年輩の男と、ついこの間まで高校生でしたというような若者だ。ふたりはコンビになって、何かの重機を操ろうとしていた。今にも機械に振り回されそうな頼りない年配に、若者が何事か叫んでいる。しかし若者の方も不慣れなようで、結果として重機の仕事は捗っていないらしい。年輩の方は弱く笑っており、若者の顔が赤いのは酷暑のせいだけではなさそうだった。

 みちみち、思う。
 私くらいの年代の者は、仕事に厳し過ぎて上からも下からも煙たがられているらしい。そうネット上のニュースが報じていた。正直なところ、悪い気はしない。本当のところはどうだか知らないが。
 ただ、私が最初に所属した小さな会社の社長は全共闘上がりの男で、その体育会系な性質は私に反感を抱かせた。その後の会社で遭遇したバブル世代の上司たちも、結局は相容れなかった。
 仕事をするうち、部下というものも幾度か持った。その多くとは、上司に対してよりは良好な関係を築けた気がするが、“自分だけは清廉潔白です”というタイプには辟易した。
 その他の有形無形の要素と経過の帰結として、こうして平日の真っ昼間に、利益が500円にも満たない取引をすべく、地元の小さな郵便局にいそいそ向かうような境遇におさまっている。けれど後悔もない。各世代が勝手な了見に基づいて色々やってらっしゃって、その中で何か為そうと調整に躍起になるよりは、ぬるい麦茶ばかり飲みながら淡々と碌でもない仕事を消化する方が、まだしも有り難い。

 郵便局でだいぶ待たされ、立ち寄った喫茶店では仕事上の面倒な電話がかかってきて、結局くさくさする時間を過ごす仕儀となった。暑さの続く、粘つくような道を私は戻ってきた。
 工事の音は止んでいた。3時のご休憩というわけだ。工事従事者たちは、日陰で思い思いに寝転んだり、幾人かで車座になってカップアイスを突いたりしている。
 先ほどの2人は――駐車場の隅の方で、並んだ車止めに腰掛けてちんまりしていた。それぞれの手には飲み物の缶がある。
 年寄りの方は、小さな赤い、甘酒の缶。
 若者の方は、黒地に緑色の爪痕のようなデザインの、エナジードリンクの缶。
 2人は談笑していた。先ほどまで苦難の仕事にぐらぐらしていた、私の倍ほどの年齢の男と、私の半分ほどの年齢の男は、そんな差をものともせず、笑っていた。
 横目でみながら、いつか自分が早足になっているのを私は知った。そんなに急いで帰っても、どうせ私の部屋には室温になった麦茶しかない。それでも私には、その麦茶しかない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?