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信頼できる存在は、大きな指標になる。

私は、クラシック音楽が好きです。けれど、楽譜どころか、♬ひとつ読めない、素人です。本腰を入れてクラシック音楽を聴くようになって、10年ですが、いわゆる”クラシック通”ではありませんから、知識もありません。どういう世界であっても、「常識」と言われる基礎知識が存在するもんですが、そういうものを勉強しようとすらしたことがありませんでした。

私には、いわゆる《芸術》と言われる世界の作品で、時代を超える力のあるものは、受け手に一切の前提条件を求めないものだ、という妙な確信があるんです。文学であれ音楽であれ、美術であれ、その作品を受容する際に、受け手に何らかの予備知識を要求するものは、時間を超えられない。仮に、本来は何らかの時代が持っている前提条件が必要とされていたとしても、本物にはそういう制約を超えて、それぞれの受け取り方ができる力がある、ということですね。

例えば、クラシック音楽というのは、その起源をたどると、キリスト教の布教と権威の拡大の手段だった。その”成功体験”から、時の権力との結びつきが深い音楽になっていったわけです(これを市民の側のものにしたのが、ベートーヴェンの功績のひとつでもあるわけですが)。

とすれば、聴き手にキリスト教への基礎的な知識なり、当時の時代状況なりへの理解が必要で、それを持たないものには理解できない代物、ということになるはずですが、実際はどうでしょうか。もちろん、聴き手の側の好みも影響するとは思うのですが、良い演奏家の演奏に出会うことができれば(この場合の”良い”は、自分にとっての”良い”です。つまり、「好き」とほぼ同じことですね)、そういうものがなくても、充分楽しめるはずです。

実際、私には音楽の知識も皆無なら、キリスト教への理解もありませんし、当時の時代状況など、昔歴史の授業で聴いたものの残骸しか残っていません。それでも、私が愛する演奏家の演奏で聴く様々な作品は、時に私を慰撫し、時に叱咤し激励し、勇気づけてくれるのです。

音楽を好きになるとは、特定の楽曲、歌手・演奏家、作曲家を好きになることだろう。(片山杜秀『音楽放浪記 日本之巻』「1 極私的追悼・伊福部昭」~サインの思い出冒頭 ちくま文庫)

2年前に地元の大学のオープンセミナーに参加したことがあります。そこで、「音楽と文学」というテーマでの講演がありました。講師の方が紹介してくださったたくさんの本の中に、片山杜秀さんのものがかなりあり、もともと興味があった人だったので、紹介された本を帰宅後ネットで買いあさったこともあります。そういう中で、上記の本にも出会ったのでしたが、この本をひぃひぃ言いながら読み通すことで、私にとって、片山杜秀は、クラシック音楽の知識を得ようとするときの指針になりました。

片山さん自身、恐るべき博覧強記な知識人ですが、そうした該博な知識をご自身で徹底的に消化したうえで、言葉にされるので、まったくの門外漢であるはずの私にも、扱われている対象を愛していれば、なんとか輪郭なりとも見えてくるという仕掛けになっています。何より、先に引用した文章にぞっこんほれ込んでしまったのですから、もう抜け出せませんね。

加えて、私には、信頼できる演奏家たちもいます。最愛のマエストロもいれば、最愛のオーケストラもいます。そのうえ、ソリストとして、その演奏と解釈・表現に全面的に信頼を置いている演奏家たちにも出会いました。まったくの素人であるはずの私に、作品の素晴らしさ、面白さといった魅力を、真摯な名演で伝え続けてくださっている方々です。一部の演奏家の方々には、感想などを伝えていて、それを受け入れてくださっていることが、お互いの信頼関係になっている場合もあるのです(と、私が一方的に思い込んでいるだけかもしれませんが)。

自分が興味を持った世界で、自分が信頼できる存在に出会えれば、それは強力な支えになります。同時に、そういう存在に出会えるということ自体が、僥倖でもあるのですよね。

そんなことをつらつら思うこともある、今日この頃だったりします、はい。

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