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私のカナダの中学校での体験を通して、英語を話すことの意義について語ります

日本の小学校を卒業後、カナダのトロントで、中学校に入学した。

その年は1995年、香港がイギリスから中国に返還された年。

中国政府に財産を取られたくない!と思った大量の香港人が、カナダに逃げてきた。

香港出身者は、一言も英語を話せず、クラスに座っていた。

すでにカナダに住み始めて数年という香港人もおり、他にも、大陸系中国人、中東系、インド系がいたため、クラス20人のうち、半分はアジア人。

1-2年住んでいる人は、普通の会話に困らないくらい。

2-3年住んでいる人は、クラスの授業がわかるくらい。

4-5年住んでいる人は、もはや現地の子どもの友達が多かった。

X年外国に住んだら、Xレベル話せる」という感覚は、ここで学んだ。

みんな英語は下手くそだったが、「英語を話せない」から静かにしていたのは、日本人だけ。みんな、なにを言っているか不明な言語で、主張していた。

「私はココが不満だ」

「話し方が早すぎる」

「ここをもっと教えてくれ」

「なんでか理由を言え」

よく英語を話せないのに、こんなに主張できるよなー、と昔は思っていた。

でも、今はこう思う:

それだけ主張したい意見がなければ、英語人とは一緒にやってはいけない。

英語を話せないことのどこがダメなのだ?外国語だから話せなくて当たり前だろうが!というメンタリティーを持たないように教育されているのは、世界各国を見ても、日本人だけのような気がする。(お隣の韓国人も少し似たような感覚はもっているが、日本人ほどではない。)

まあ、それを日本人の奥ゆかしさ、相手をリスペクトする良さ、と言う人もいるが、そんなところで、リスペクトは要らない。

主張したい意見がある人のほうが、英語が上手く話せるようになるスピードは圧倒的に速い。

よく、相手に伝えたいという願いが英語を上手にさせる、と言うが、願いでは足りない。それよりさらに強く、自分はこう思うのだ!という主張が必要である。

英語をできないがゆえに、小さく座っているのは日本人だけ。日本人の多くは1-2年限定で親の駐在できていたからかもしれない。

主張する人を「ウザい」と思うか、「へぇ、なるほどー」と思えるか。

どちらに転ぶかで、英語の上達度が変わってくると信じている。

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