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禍威獣と外星人と、人のふりした光の巨人と、そして愚かな人間と。

先日『シン・ウルトラマン』を観ました。
とりあえず、感想の要約を先に挙げておきます。

楽しかった。
だけど例えセクハラ描写はダサいし許せないから、この批判をしっかり受け止めて作り手側はシン化し続けてください。

ではまいりましょう。もちろん完全にネタバレです。

センス・オブ・ワンダー、私の好きな言葉です。

私は一応特撮好きではあるが、子供の頃から好きで積極的に見るというよりは、学校や近所の友達だったり、後は弟の影響でそれに触れることが多かった。でも、実際は再放送そのものよりも祖父が幼い弟に買い与えていたウルトラ怪獣大図鑑的なもので詳細を知ったのが大きい。
また、小学校から中学校にかけてはリバイバル&レトロブームにのってのシリーズ再放送が多かったので、全話ではないもののよく観てた。その再放送で金城哲夫、実相寺昭雄、市川森一というクリエイターの名前を覚え、後に『ウルトラマンをつくった男たち』や『わたしが愛したウルトラセブン』などのバックステージドラマや各自が手がけた作品などで深く知っていった。また、青森県立美術館で見た成田亨のデザイン画にも圧倒された。
でもウルトラシリーズは中断期間がたびたびあったことから、戦隊やライダー、その他様々なプログラムを継続して作っていた東映特撮の方に思い入れが深くなってしまった。大人になってからウルトラについて触れたことといえば、実相寺監督が手がけたティガや、三池崇史監督が手がけたマックスのいくつかのエピソードくらいかな。参考としてかなり昔に書いたこの記事を。
最近だとNHK-BSで放映されたウルトラQ&セブンのデジタルリマスター版と、いくつかエピソードを観た『ウルトラマンZ』くらいか(もうすぐ新作も始まるらしいが、テレ東系なので観るのが大変で…ははは)

とはいえ、子供の頃はまだ「ウルトラシリーズは男の子のもの」という意識が自分や周囲の大人たちの間で強かったし、男子に交じってごっこ遊びなどすることもないし、むしろ女子の遊びの方が好きだった。
しかし、それよりも好きだったのが本を読むことで、特に恐竜や宇宙についての本に夢中になっていた。その延長線上で、小学校高学年では男子たちも虜にした図書館の少年少女SF全集にも手を出した。なにせ「少女」とついているから、安心して読めたのだ。おかげで中学から大学まで、ガイドブックもふくめてだいたいのSFはカバーできた。今は本に多少関わる仕事はしているが、新しいSFは『三体』を追うのがやっとというくらい。
そんなわけで現在はこのように中途半端な特撮&SF好きをやっているのだが、そんな人間であってもこの映画は心をつかんできてくれたし、ああ、これはもう見事なセンス・オブ・ワンダーではないか…と観終わった後に何度もつぶやいてしまった。

ウルトラQのテーマにのせてさっさと説明される巨大不明生物→敵性大型生物「禍威獣」の脅威にさらされる現代の日本。自衛隊→官民学連携→防災庁設立と禍威獣特設対策室(以下禍特対)の設置等、脅威への対策もさっさと語られる。テンポ良すぎ。『シン・ゴジラ』と同じ世界線か?と思わせられるが、どうもそんな様子でもない。どの禍威獣も人間にとっては害を振りまく存在であるから駆除せねばならないが、登場するたびに手ごわくなるのはいうまでもない。そこに外宇宙から飛来した銀色の巨人が現れ…とあらすじはここまででいいか。
巨人の「ウルトラマン」という呼称が禍特対に途中加入する公安調査庁分析官浅見(長澤まさみ)の命名であったり、禍特対で作戦立案を担当する神永(斎藤工)が融合後に人格まで置き換わってしまっていたり、さらに彼の正体が中盤で実に現代的な手段でバレてしまったりと、多少オリジナルを知ってはいても所々で驚かされる。
中盤から登場する禍威獣の発生を仕掛けた外星人(おお、中国語由来だ…)たちのエピソード、そしてクライマックスまで、一見すると各自バラバラなエピソードにも思えるが、なぜウルトラマンが人類に心を寄せるのかという問いと答えがしっかり語られていることと共に、それが自分がこれまで触れてきた数々の本や思想や学問に通ずるところが非常に大きいと感じたのだった。災害が続く21世紀日本の世知辛さや笑えない状況も現実を踏まえており、そのリアルさの上に立ってこれらの禍威獣の脅威やら外星人の策略やら巨大な力が失われた後の人類の叡智の行方が展開されるのだから、ああ、センス・オブ・ワンダー…と言わざるを得ないのであった。やれやれ、実に単純な思考ですね、と外星人メフィラス(山本耕史、怪演!)に言われそうである。ああ、それは承知の上だ。

特にそのメフィラス登場からの後半の展開には、我が最愛のSFのひとつである『幼年期の終わり』を思い出させた。メフィラスも、「光の星」からのもう一人の使者であるゾーフィも地球人に対して圧倒的な力を見せるのは、かの小説に登場する宇宙からの使者オーヴァーロードを彷彿とさせる。ただし外見は各自全く異なるし(メフィラス本体はむしろ近くはあるが)もちろん同じような展開にはならない。
(あとは『三体』も思い出したのだが、残念なことにまだ第3部を読んでいないのではっきりと断定はできない。でもSNSでよくこの2作品と比較する旨のtweetは見かけるので、案外同じように感じる人は多いのかもしれない)

さらに後半の展開で『幼年期の終わり』の他に思い出したのが、大学で学んだ異文化理解や文化人類学であった。序盤で神永がレヴィ・ストロースの『野性の思考』を読んでいたというのが話題にのぼっていたのが、文化人類学をとってもレヴィ・ストロースを全く読んでこなかった自分を大いに恥じた…(後悔役立たず)
それはともかく、地球人よりも遥かに上位位置にあり、『竹取物語』の結末で登場した感情のない月からの使者を思わせるような、光の星のリピアという名の巨人が神永と融合してウルトラマンと呼ばれ、地球人を知って愛を抱いていく過程には異文化理解を重ねて見ることができる。今改めてオリジナルのシリーズを観ても、おそらく同じことを思いながらしみじみと観てしまうかもしれない。そう考えると奥が深いし、物語の奥に自分の好きなものや経験したものを見られるのは実に楽しい。

フェティシズム、私の苦手な言葉です。

さて、先に(自分にとっての)この映画のよかった点を述べたが、それであってもこの映画を手放しで絶賛できない。観ている間にやはり気になる個所はいくつかあったのだ。いわゆる「セクハラ描写」である。
私が気になったのは次の点であるが、これが該当するのであろうか。

・浅見は気合を入れる時に自分の尻を叩く癖があるが、その度に彼女の臀部がクローズアップされる。
・メフィラスによって巨大化した浅見がタイトスカートで大跨ぎする。
・元に戻った浅見の体臭から、神永がメフィラスの関与を察知する→後にメフィラスがそれを「変態行為」と批判する(全くどの口が言うのか…)

総じて浅見に関する描写に顕著である。というか、浅見はなぜリクルートスーツ姿?公安調査庁の中堅分析官でも現場に出るのにタイトスカートとハイヒール?えー?と頭を抱えてしまった。いや、彼女のキャラクターも男性多数の職業に見られる「おっさん女子」的なものを感じたし(いろいろ心当たりがある)、あのいでたちも男社会で渡り歩くための武装とも考えたいし、長澤のインタビューを読むと浅見のキャラは彼女のパブリックイメージを多少反映しているというのだが、それにしてもこれは…と気になってしまう。
そのため、幾つかの批評でこのくだりを「フェティシズム」と称していたのには腑に落ちたのだが、それにしてもちょっと調べたら、フェティシズムには性的な視線も入ってしまうことが指摘されているので、ここまで反発を及ぼすとは考えつかなったのかもしれない。
かつて80年代から2000年代くらいの特撮ものにオマージュを捧げたアニメや大人向け特撮作品にいわゆる男性向けサービスとも取れるショットを幾つか見つけて気になったりがっかりしたことがあった。それは些細なことで過剰反応にとられそうなので詳細は控えるが、この映画の撮影が3年前で、公開延期を重ねるうちに世界各国の映画におけるジェンダー描写のが劇的に変化したり、ここしばらくの日本映画界が抱える幾つかの問題の影響があったからなのか、たった3年のうちにこういうフェティシズムが映画にネガティヴな印象を与えてしまうようになったのだ、と思った次第である。いずれにしろ、老若男女に楽しんでもらうエンターテインメントなら、お好きな方にはたまらないフェティシズムはノイズになってしまうし、不快な描写はアウトオブデイトであるのだよ。

どう転んだって人類は愚かだ。しかし…

しかし、外星人と政府との交渉のくだりなどを観ていると、人間は愚かと言われても致し方ないのかもね、などと現実を顧みて思ったりもしていた。あまりあれこれ言うと嫌がられそうだが、空想を描く映画でも現実社会はしっかり反映している。我々は愚かである。
でも、そんな愚かさの中にも、助け合い、守っていきたいという強い気持ちで動いていくものがある。禍特対の面々はその思いを抱いてミッションに向かうし、ゾーフィが放った最終兵器(!)ゼットンの威力を見せつけられた後での滝(有岡大貴)の巻き返しなど、愚かであることを認めつつ、どんなに絶望の底にあってもわずかな可能性にかけることの大切さも描かれているし、可能性はまだまだあるということも示してくれる。そこが人類の「シン」化であり、それを促すためのウルトラマンという考えに至った。

まあ、私の感想はこんなところでいいかな。

庵野秀明(企画・脚本)と樋口真嗣(監督)とその仲間たちが6年前に放った『シン・ゴジラ』と比べると、どうしても対象が「ウルトラシリーズがお好きな方」になってしまいがちなのは致し方ないのか。先に挙げたようなフェティシズムがノイズになってしまうのはあまりにも残念ではないのか。
作品としては悪くないのだけど、批判されても自分が好きだからいいのだ、とも言いきれなくて、感想を書くのにも実は悩んでいた。こういう風にしか言えないのだが、それでもいいだろうか。

今回批判が目立った個所は、次回作には改善され、さらなる「シン」化を見せてくれることを期待したい…と思ったら、次のシンはこちらの守備範囲である仮面ライダーではないですか。これまで解禁されたキャストや予告を見る限りではなかなかいい感じで行きそうだけど…期待もほどほどで待っていた方がいいのかもね。

そういえば公開前夜に、天の川銀河に存在するブラックホールの撮影に成功というニュースが入ってきて記者会見を観ていたのだが、世界で初めて撮影に成功したブラックホールが、この歌の題名の元ネタでもあるM87銀河にあるため、偶然にしてはなんだが面白いなと思ったことも最後に書いておく。

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