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湖東をゆく 2日目

 この日はバイクの機動力を生かして、史跡巡りです。朝からガンガン回りました。

 まずはウォーミングアップに、琵琶湖畔をぶらり。長命寺近くの湖畔道路は軽いワインディングになっていて、気持ちよく走れます。
 沖には、国内唯一の湖水に浮かぶ有人島「沖島」。本当は渡りたかったけど、コロナのことがあるので諦めました。
 かつて琵琶湖につながる「大中の湖」という内湖がありましたが、戦後の食料不足に伴う増産体制に合わせて干拓されました。実は安土城もこの湖に面していたのですが、干拓によって今は周囲を田んぼに囲まれています。

 朝食後、いよいよ動き出します。以下、順番に。

佐和山城址
 彦根城の東、若干高い山の上に立つ佐和山の山頂にある山城。畿内・東海・北陸の結節点として重要な位置にあります。就中織田信長が岐阜から天下を望むと、湖東への入り口として益々重要に。信長は湖北の大名浅井長政の家臣、磯野員昌を降すと、股肱の臣丹羽長秀を入れています。豊臣政権下では堀秀政などを経て石田三成に与えられ、近世城郭として整備。天守も建てられました。関ヶ原後は井伊家が一時的に入部、しかし彦根城が築かれると徹底的に破却されました。
 建物はおろか、石垣までも取り去られ、遺構がわかりにくくなっています。しかし縄張りは見応えがあります。曲輪や縦堀が散見され、本丸曲輪には枡形虎口が。行くに行けない曲輪もありますが、なかなかどうして、楽しいではないですか。
 本丸は見晴らしが良く、彦根城と城下を一望できます。整備も十分、草刈りもしてあって、夏でも楽しめます。

百済寺
 平野の東端、山際にある古刹で、湖東三山の一つ。聖徳太子によって創建されたといい、近江最後の寺院とされます。
 中世には寺坊三百を数えるほど。僧兵も抱え、要塞都市のようでした。戦国期、六角氏と結んだために信長に攻められ焼亡し、衰微しました。
 今は往時を想像するのみですが、遺構を見ているとよほどの規模だったことがわかります。そのよすがを感じられる、素晴らしい寺院です。ことに参道を登る石段が素晴らしいです。

鯰江城
 六角氏の城跡です。信長に本拠を逐われた六角氏の復興のため、百済寺と連携を取るために防御を固めました。しかし後に再び攻められ落城しています。
 愛知川の僅かな河岸段丘を利用して築かれたと思しき地形ですが、遺構はわずかに土塁が残るのみ。その上は曲輪かなと思いますが私有地なので、石碑のみで攻略とします。

石堂寺
 山名はインドのアショカ王の名をとって阿育王山です。ここも聖徳太子伝承がありますが、なにより特異なのは名前のもとになった石の塔です。本堂脇の石段が真っ直ぐに丘の上につながっていて、これを登りきると、山頂がパッと開けて無数の石の塔が立ち並びます。塔の様式も様々で、明らかに日本中世のものではなく、おそらく渡来人系のものが多かろうと思います。登りきったときに感じる異世界に迷い込むような感覚は、それもあるのでしょう。湖東には渡来人が多く移住しており、その名残が感じられるのも、近江国の一筋縄では行かないところです。

長光寺城
 近江八幡の南、日野川に近い独立丘陵に築かれた城です。上洛を果たしたものの、浅井氏に離反された信長は、本拠の岐阜と京を結ぶルートに重臣を配し、確保します。このとき長光寺城に籠められたのは猛将柴田勝家。ここに旧領回復を目指した六角承禎が挙兵しましすが、勝家と永原城将佐久間信盛が野洲河畔でこれを破り、信長の狙い通り通商ルートを確保したのです。
 なお、「武家事紀」という書によると、長光寺城を攻められ、水の手を切られた勝家は、城内の水瓶を全て割って将兵に覚悟を決めさせると、果敢に打って出て六角軍を撃破したといいます。これにより、勝家は「瓶割り柴田」と称されたと。まあ、武家事紀自体が江戸時代の刊行なので、事実かどうかは疑わしいですが。
 城は丘陵の頂点を中心に、三方の尾根に曲輪を配して要塞化しています。一部石垣も見られますが、やや粗放です。竪堀や堀切が大きく、土橋らしきものも見られます。主郭は広いですが、雑草が多くあまり入れませんでした。道があるだけマシ、という山で、その道も蜘蛛たちの格好の餌場になっていて、登るのに難儀しました。

五個荘町
 五個荘は近江商人発祥の地の一つです。商人たちの屋敷はよく保存され、美しい景観を生み出しています。五個荘商人は江戸時代後期に彦根藩による保護政策もあって急速に成長し、明治以降にも多くの商人が巨財を積みました。中でも呉服で東京にも進出した外村家(作家の外村繁の実家)や、朝鮮や大陸に「三中井百貨店」を展開して三越以上の売上を出した中江家が有名です。
 財を成したのが明治以降のものが多いため、どの屋敷も惜しみなく費用をかけた豪壮な家が多いです。といっても成金趣味をひけらかすようなところはなく、数寄屋普請の王道を行く、いたって瀟洒な家ばかり。秩序だった町並みのなかで悪目立ちすることはないのは、近江の良き伝統というべきでしょう。
 いくつかの屋敷は見学できます。通りからは見えませんが、家の材にはかなりいいものを使っていて、品のいい庭をもち、このあたりのお金のかけ方が違いますね。若い頃に一度来ていますが、あらためて見ると町並みの秩序と調和しつつ軽やかな個性が感じられて、眼福でした。

平家終焉の地
 野洲市の篠原というところは、国道8号線で通りかかると「源義経元服の地」という案内が見られます。煌びやかな義経の生涯は今でもこのように飾られるのですが、一方で「平家終焉の地」という案内がひっそりと立っています。工場の裏手に入っていくと、そこには平宗盛とその子清宗の胴塚がありました。
 宗盛は清盛の死後家督をついで総帥となりました。しかし平家物語では愚鈍な人物として描かれており、平家の滅びを呼んだとされます。夭逝した兄重盛の優秀さや、潔い死を迎えた敦盛の可憐さと対比される役割です。壇ノ浦では一族とともに入水しますが、生き延びてしまいました。甲冑2領を着込んで飛び込んだものの泳ぎが上手で、つい泳いでしまい船上に引き上げられて捕縛されました。
 武家の棟梁としてあるまじき姿と批難され、鎌倉に引き立てられてからも頼朝に卑屈な態度で助命を乞うなど嘲笑されたといいます。
 その後再び京に向けて送還される途中、篠原で清宗・能宗ら子たちとともに処刑されました。義経のせめてもの温情で胴は同じところに埋められたそうです。

 歴史上の英雄たちは機に応じて英断を下し、死地においては清々しく、平時にあっても変に備える人たち。後世の我々はそれを讃えるわけですが、実際にはそんな人物はほんの一握り、多くの人は機を逃し、死地にあって徒に左顧右眄し、平時にあって変を忘れるものです。
 そんな人物がそれにふさわしくない立場にたてば醜態を晒して史上に汚名を残してしまいますが、果たして自分は?と思えば、私も宗盛のような姿を見せるのでは、と思います。だから私は宗盛を尊敬はできませんが親近感を覚えますし、同情もするのです。

 宗盛は総帥にふさわしい人物ではなかったと思います。温和で毅然とした態度を取れず、決断力もありません。しかし、家族での愛情深く、優しい人物だったようです。鎌倉の幽閉先では村の子供達と遊び、懐かれていたとか。妻の死には官職を返上して嘆き、遺児能宗は乳母に預けず自ら育てています(当時の貴人では非常に珍しい)。嫡子清宗も大事にしており、死ぬべきを生き延びたのは清宗のためだったと述べています。処刑前の言葉は「右衛門督(清宗)もすでにか」。最期まで我が子を案じていたのです。どこか浮世離れした敦盛よりも、よほど人間らしい姿ではないでしょうか。
 宗盛は汚名とともに、しかし大事な子息たちと眠っています。以て瞑すべし。

琵琶湖夕景
 宿に戻る前、長命寺の近くで夕景を眺めました。湖東から琵琶湖のむこう、比良山系に沈んでいく夕陽は素晴らしいものです。是非一度。

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