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自己紹介(ビジュアルアドバイザー)

ビジュアルアドバイザーの佐藤です。

「実写映像にグラフィックデザインでもうひと手間加えたい」
「この商品の使い方を、写真と文字だけで説明したい」
「タイトル映像を作ってほしい」

実写にグラフィック要素を加えるなど、モーショングラフィックスを軸に多くの映像案件に関わってきました。固定されたスタイルはありませんが、広く浅く興味を持ち、「必要な知識・技術があればその都度勉強する」といったやり方でやってきました。お仕事のご依頼・ご相談お待ちしてます!












_:(´ཀ`」 ∠):

やっぱりこれだけ書いて、自分のデモリールとかを貼り付けるだけでは、自分のことを知ってもらうには足りないのではないかと。
そこで、私の為人を少しでも感じ取ってもらえればと思い、簡単ではありますが、改めて文章主体で自己紹介をしようと思います。


はじめに

ロバに跨っていた頃の筆者(記憶無し)

改めまして、佐藤晋一です。
日本在住のビジュアルアドバイザーです。
趣味は、ドライブ、ゲーム実況の視聴(Dead by Daylightが好き)。



ファミコン世代

小学生の時、私は将来の夢に「ゲーム会社の社長」と文集に書いてました。当時はゲームと言えばファミコンで、自分も含め友達の多くがファミコンに熱中してました。スーパーマリオブラザーズが発売された時は衝撃でしたね。確か学級新聞の中のニュースとして掲載されているのを見て知ったのだと思いますが、当時の自分には「スーパー」という言葉が聞き慣れない言葉だったので「スーパーって何?どういうこと?」とかなり動揺したのを覚えています。笑

珠算3級に合格したらファミコンを買ってもらえるという約束を守るため熱心に取り組む筆者(左)

あと、ゲーム以外には模型工作が好きでした。模型工作クラブというミニ部活みたいなものにも所属してました。基本的にはタミヤの模型を買ってきてみんながそれぞれ作るだけなのですが、私はキャタピラーの機構が好きだったので、タンク的な模型を作って楽しんでました。何度か盗まれたことがあり、個人的に出来が良かったのでショックでしたが、その都度また同じものを作り直してました(タフですね)。

ちなみに、部活は最初野球部に入ったのですが、夏休みの練習がキツく、グラウンドでヘロヘロになりながら外野の守備をしてる時に、涼しそうな音楽室で、小さい四角のパステルカラーをした3個で1つの個包装された飴を舐めたりしながら談笑してる休憩中のブラスバンド部員たちの姿を見て野球部を退部することを決意。ブラスバンド部に入部しました。担当する楽器は、リコーダーのテストをしてから先生に指定されるのですが、最初はサックスでした。当時私の小学校では木管楽器には女子しかいなかったので、ブラバン初の木管男子でした。ただ、当時小学4年のシャイネスな私には女子だけの環境にいることがなんだか恥ずかしく、結局先生に頼み込んでトランペットに変更させてもらいました。ちなみにトランペットを選んだ理由は、最上段の真ん中あたりにいて、いつも堂々としててカッコよく見えたから。
大会ではソロを吹かせてもらったりもしてブラスバンド部はとても楽しかったです。

30代の時、タブゾンビモデルのマウスピース(シルバー)を購入
(本当はゴールドが欲しかった)※画像はCGで作成したイメージ



憧れはアニエスベー

イラストも描きます

中学生の時は、ファッションデザイナーになりたいと思ってました。なぜなりたかったのかは覚えていませんが、当時は女性向けのファッション誌を買ってきては、そこに出ている洋服などを見ながら、自分でもオリジナルの洋服を描いたりしてました。そして並行して、なぜかレタリングにもハマってましたね。暇さえあれば、チクチクといろんな漢字をレタリングしてました。漢字がカッコイイと感じていたのだと思います。中学校の通学鞄の表面に中学の校章が入っている部分があり、ちょうど正方形ということもあり、漢字一文字だけを入れてましたね。ちなみに漢字のレタリングはしてましたが、書道の腕は大したことなく、小学生の時に4年間通っていましたが、最終的な段位は4級でした。(それって習い始める時の級なのでは?)
あと、MSXというパソコンにもハマってましたね。当時MSX・FANというパソコン雑誌があって(今もあるのかな?)、確かその中に読者が自作したゲームのプログラムが掲載されるコーナーみたいなのがあったのですが、ある回のプログラムがかなりボリュームがあり「ちょこちょこ入力していては、このゲームを遊べるのがだいぶ先になってしまう!」と思い、仮病を使って2日くらい学校を休んでずっとプログラムの入力をしてましたね。でも結局入力ミスがあり、ちゃんと遊ぶことはできませんでした。苦笑

今でも文字は好き

ともあれ、自分はファッションデザイナーになりたいなぁと漠然とですが思っていたところ、母から「ファッションデザイナーもいいけど、通訳にでもなったら」と突然言われました。私の中の通訳と言えば、当時やっていた昼のTV番組「笑っていいとも!」に海外からゲストが来た時に一緒に付いてる人というイメージだったので、おそらく当時の自分は通訳という仕事に対して楽しいイメージを持ったのでしょう。「通訳ってイイかも!」と思い、急遽路線変更し、外語系大学を目指すことに(安易ですね)。



一浪して大学へ

高校の時は、とにかく大学へ行くことしか頭になかったです。勉強は大してできませんでしたが、大学進学への意気込みだけは凄かったですね。第1志望の大学に合格する夢を見たからだと思います。笑
私の第一志望の大学は、獨協大学外国語学部英語学科だったのですが、大学を選ぶ際、自分の中に基準が2つありました。ひとつは学費が安いこと。私は理数系が得意ではないので国立は難しいと思い、私立で考えていました。なので、できるだけ学費が安い大学を探しました。今は分かりませんが、当時の獨協大学は私立の中でも安い方だったと思います。ただ、学費は私立の中では低いけど、偏差値が高くて震えました。当時の私の偏差値は40くらいだったので。。
そして選ぶ基準のもうひとつは、大学名が漢字的にカッコイイかどうかです。
この話、あまり分かってくれる人はいないのですが、大学入学後に同じ学科の友達にこの話をしたら「分かる!」と言われました。やはり大学くらいの規模の人数になると自分と同じような感覚を持った人もいるんだなぁと当時感動したのを覚えています。ちなみに獨協大学以外にカッコイイと思った大学は、京都外国語大学です。

まぁそんなこんなでいろいろと検討した結果、自分のその時の実力はとりあえず置いておいて、有名無名関係なく、素直に自分が行きたいと思えるかどうかで選びました。特に、獨協大学の建学の理念「大学は学問を通じての人間形成の場である」が私はとても好きです。大学のパンフレットとか穴が空くほど読みましたね(オープンキャンパスでもらったテレカはいまだに持ってます)。

そんなわけで、1年間の浪人生活を乗り越えて、獨協大学外国語学部英語学科に入学することができました。
大学の合格発表は、今と違ってインターネットもなかったので簡単に確認することなどできなかったし、他の大学の入学手続き期限などの都合もあり、大学へ直接行って確認しました。どうしても入りたい大学だったので、自分の受験番号を見つけた時は、泣きました。当時は携帯電話とかなかったので、公衆電話から実家へ電話で連絡するのですが、電話BOXで号泣しながら両親に伝えましたね。懐かしいなぁ。

そして、通訳になるべく意気込んで入学するわけですが、まさかの衝撃的な出会いで急遽路線変更するとは夢にも思っていませんでしたし、ウチの両親もいろんな意味で衝撃を受けたと思います。苦笑



きっかけは好奇心

大学生になって反抗期が始まった筆者(自転車修理中)

元々音楽は好きでいろいろ聴いていましたが、大学1年生の時に「ハードコア」というジャンルに出会いました。同じクラスの軽音部に所属してる友達から勧められて聴いたのが初めてです。正直最初は雑音かと思ったし、音楽を聴いて不安な気持ちになりました。でも何故かそれが自分には心地良かったです。その流れで気付けば沼にどっぷり(ちなみにハマったのはヌンチャクというバンド)。御茶ノ水・渋谷・新宿のdisk unionにはよく通ってました。新宿のNATとかも。とにかくデモテープからレコードまでいろいろと買い漁ってました。

余談ですが、disk unionの商品には商品レビューの書かれた黄色いシールが貼られているのですが、それがすごく好きです。特によく聴いてたニュースクールハードコア系の商品レビューが好き。「〇〇出身の五人組によるブルータルでミリタントな極悪系〜」とか。多分わかる人にしかわかりませんね。。

さらに余談なのですが(好きだねぇ余談w)、ニュースクール系にハマってからは、Tシャツのサイズも基本XL以上を着るようになりました(現在はM)。私は小柄なので、XLだと相当デカいので、ハーフパンツだと少し裾が見えるくらい。ダボダボな感じを好んで着てました。
ある日、好きなバンドのバンドTが古着で売っていて、しかも割と状態も良かったので、XXLというサイズだったのですが迷わず購入。しかし、実際に着てみると、ハーフパンツが全く見えないほどの大きさでした。それでも好きなバンドTだったので嬉しくてそのまま外出したのですが、その姿を見た友達に「オバQみたい。笑」と言われ「確かに!」と思い、急いで別のTシャツに着替えた思い出があります。笑

そんな感じで、ライヴハウスにもCD/レコード店にも足繁く通うようになり(ライヴは当時週1〜2のペースで行ってました)、そこから自分でもバンド活動を始め、音楽イベントを開催し、音楽もより一層ジャンル問わず聴くようになり、音楽業界の仕事も手伝うようになり、そういう世界でのいろんな出会いがきっかけで、気が付けば通訳でも音楽でもない、映像の仕事をするようになっていました。

ライヴにハマっていた頃の筆者

映像制作を始めたきっかけは、BEAT CRUSADERSというバンドの“Eyes In The Sky”という曲のMVを観てる時に「自分でも作ってみたい」と思ったことがきっかけです。まさかその後、そのメンバー(ウムさん)と一緒にバンドをやるとはその時は思ってもみませんでしたが。笑
それで見様見真似というかとりあえずビデオカメラとパソコンがあればできるだろうと思い、それらを購入するところから始まりました。ビデオカメラといっても最初に買ったのは家庭用のハンディカムで、パソコンはメモリ512MB搭載のeMacでした。笑

ウムさんとやってたバンドのMV
(タブゾンビモデルのマウスピースがチラッと映ってます笑)

元々細かい作業が好きという性格もあってか、映像制作は一気にハマりました。自分の思うように編集できることに楽しさを感じたのだと思います。まだ周りに映像に詳しい人やそういう学校に行ってる知り合いとかがいなかったので、本や雑誌などからいろんな情報を摂取して勉強しました。当時はバンド活動をしていたこともあり、知り合いのバンドのMVはかなり作りました。

基本的に監督・撮影・編集を自分1人でやり切らなければいけない状況が多かったので、大変なことも多かったですが、周りの人たちには本当にいろんな経験をさせてもらい、感謝しかありません。ありがとうございます。
だから、私にとって音楽は、映像を作る上でもとても大切なものです。
音楽の付かない映像だとしても、自分がイメージする音楽を聴いたりしながら編集作業をします。



まとめ

息子と母校の正門前にて

長くなってしまいましたが、簡単な自己紹介でした。笑
将来なりたいものに向かって頑張ってきたというより、その時々に興味関心のあることをとにかくいろいろとやってきた結果が今という感じですかね。最近はUI/UXデザインと発達支援に関心があり、いろいろと勉強中。

あなたのビジュアルパートナー

現在は、2024年に夫婦で起業したHANDという会社で活動しています。
映像、写真、グラフィックデザイン、アイディアを使い、イメージを具現化する仕事をしています。クライアントの意向を踏まえたクリエイティブを提供することが強みです。

ご依頼・ご相談などありましたら、お気軽にお問い合わせください!





▼余談的お知らせ
この記事は、書き足したいことがあれば、その都度追記していくので、よければ時々チェックしてください!

家族の肖像画

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