★165:>「敗者」と切り捨てられようが、また這い上がればよし。
また久しぶりに書かせて頂きます。
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人気絶頂、
または円熟期に入ったアーティストは
期待されようとも好きなタイミングで
作品を世に送り出す。
…が、しかしながら私はそうではない。
やはり量稽古は必要である。
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しかし、
クソのような駄文ばかり書きまくっても
世の中に見捨てられるだけではないだろうか?
などと
くだらんことを考えては書けない日々を送る。
ブログ更新できない
「あるある話」の一つ。
このままでは、
「その他大勢」として一生終えるのは
本当に悔しいマジで悔しい禍根を残すだけ
なので、
今日えいやと書いてみた。
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最近辛いことが重なっていた。
しかし、何とか乗り越えて
雨降って地固まる、ではないが
危うく「敗者」になりかけ、
「敗者」から這い上がれそうな予感がしている。
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そう。
最近、仕事で傷付きまくっておりましたが、
「傷付くから強くなれる」
というのは、
間違いない…という実感。
この実感は今までの人生で最も大きい。
何が異なるのかというと、
傷を正面から受け止めて、
傷を直視して
肯定することができるようになったこと。
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傷を受けていたのは、
過去からずっとだった。
しかし、
傷を正面から肯定できるようになれたのは、
本当に最近のことだ。
そう、
私は自分の傷に向き合えない、
逃げ癖が付きまくった
「敗者」の人生を歩み続けていたのだから。
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何かに逃避するのは勿論のこと、
心の中で他人を批判したり断罪したりして、
溜飲を下げ、
傷をごまかし過ちから目を逸らそうとする。
そこからは何も産み出さない。
産み出せない。
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ダメだと思ってもやっちまう。
この負のスパイラル。
どうしたらいいんだ!なのだが、
傷から目を逸らすのではなく、
傷と共に前に進むしかない。
そうするしか
肚を決めることはできない。
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振り返ると、
過去肚を決める機会は何度もあったことに気付く。
傷から目を逸らしていると、
前に進んでいるようで
スカスカな時間と毎日を過ごしてしまうが、
日常に魂を込めたければ、
傷が疼いていようが、
傷の痛みを肯定して
前に進んで負った自分を
遠慮なく認めていけばいい。
そこから
エネルギーは渦巻いてくる。
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だから、
「痛みは強み」なのである。
ワクチンを打ちまくれ。
より強い痛みを受け止められるよう、
自分の器を上げていくのだ。
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と、
こんな「コブコブ」な文章を
書きたくなったきっかけとして、、
インストラクターの仕事で
「逃げ癖満載」な
昔の自分を見たような人と
昨日接してしまい、
悔しい想いをしたからだ。
結局その人は逃げてしまったわけだが、
その人を救えなかった自分が
とても厭になった。
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しかし、
ある人に相談したところ、
「そもそも人を変えると思うのは傲慢」
「結局、その人の意志が弱かったと割り切るしかない」
という返信を頂いた。
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確かにそうだ。。
いつの間にか、
相手を変えようと躍起になっていた自分がいたのだ。
だからアドバイスに変な力が入ってしまう。
自然に相手に力を伝えることができない。
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「その人の意志が弱かったと割り切る」
これは、
残酷なようで
実は健全な判断ではないだろうか?
残念ながら
キレイ事を抜きにして
「敗者」は切り捨てるしかないのだ。
しかし切り捨てながらも
這い上がる意志が戻るならば
這い上がって欲しい
と、眼差しを送るしかないのだ。
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これは自分に対しても言える。
痛みから逃げず、
痛いと感じている自分を客観的に肯定する。
痛くていいんだ。
敗けてもいい。
しかし、這い上がって必ず勝てばいい。
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ということで、
「痛みと希望は地続き」なのである。
「敗者」は一時的に世の中から
自分から切り捨てられる時があっても、
敗けた悔しさをバネに
また這い上がれば、それが生き様となる。
だから諦めるな。
諦めないでまた這い上がれ。
自戒を込めて。
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【今日のまとめ】
痛みと希望は地続きである。
「敗者」となろうが
切り捨てられようが、
敗けた痛みから目を逸らさず、
痛みと共に前に進んだ者だけが
本当に必ず勝てる存在に
なれるのではないだろうか?
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(正味1,602文字)
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