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064 水の聖域

それは、だれでも持っているもので、普段は隠れていますが、ふとした瞬間に感じることのあるものです。目には見えませんが、私も持っているし、あなたもきっと持っているはずのものです。

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その男の子は、とにかく無口な高校生でした。
なにか質問をしても、うなずくか首を振るか、単語で答えるかで、たとえば「最近どう?」といったオープンクエスチョンには、首をかしげるだけで答えません。
私に対してだけでなく、他の職場の人にも家族にも友だちにも(と言っても、彼が同級生と話しているのを見たことがありません)、そういう感じなので、おそらく話さないことが彼のスタンダードなのでしょう。

私は彼のときどき口もとだけで笑う表情や(爆笑はしません。あくまで口角が少し上がるだけ)、私が話しているときにまっすぐとこちらを見るきらきらした目が好きです。言葉にできなくても、きちんと、なにを思っているのか伝わってくるからです。私は彼を見かけたとき、よく声をかけていました。

そんな無口な彼ですが、勉強は大変よくできる子です。
私がある日、こう話しかけました。
「受験生だねぇ。」
彼はふんふん、とうなずきます。
「大変だと思うけれど、今年はがんばる年だから悔いのないようにしたいね」
彼はふんふん、とうなずきます。
「勉強、しんどいと思うときもある?」
彼は眉間にしわを寄せて首をかしげています。
眉間にしわを寄せているときの彼は考えているときなので、私は待ちます。
待ちましたが、彼は首がもげそうなくらいかしげてしまったので
「どの科目がいちばん好き?」
と別の質問を投げました。彼はいったん首を元に戻しましたが、またややかしげて眉間にしわを寄せます。私がそのしわを見ていると
「数学」
と言いました。すうがく、とひとつひとつの音を大切に言いました。
「そっか、好きな科目があっていいね」
そう言って、んじゃまたね、と言おうとすると、また彼の眉間にしわが寄っているのを見ました。まだ、なにか考えているようです。
彼は、とてもよく考える子です。
その考えることをじゃましてはいけない、と思い私は彼を見ていました。


すると、
「お母さんにかえしたいから」
と言いました。とても小さな声だったので、もしかしたら聞き間違いかもしれません。
でも、きっと私の「勉強、しんどいと思うときもある?」という質問に対しての答えだったのだと思います。
お母さんにかえしたいから(しんどくない)。

このとき、私は彼の大切な思いを感じました。
とてもきれいで、だれにもおかされることのない、彼が大切にしているもの。

私は、
「やさしいね」
と言いました。彼は首をかしげてしまいましたが、口もとがゆるむのも見えました。
んじゃあね、と言って、彼と別れました。

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彼はこれからもたんたんと努力するでしょう。
いやなことがあっても、うれしいことがあっても、口には出さないでしょう。
眉間にしわを寄せて悩むこともあるでしょう。
でも、きっと目の輝きが失われることはないでしょう。

それは、彼がとてもきれいな彼だけの思いを持っているから。
私は心から応援しています。


あなたの目に見えない大切なものはなんですか。


今回も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


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