『ナミビアの砂漠』感想

河合優実が演じる主人公のカナは、きちんと働いてはいるものの無気力で、特にこれといった趣味も目標もないままに、ぼんやりと生きている(ように見える)。

そんなカナの生き方が、ストーリーによってではなく、カナの細かな挙措や身体の動かし方、表情などを日常のあらゆる場面において写し撮った映像によって語られていく。

カナは何も考えずに生きている、訳ではない。ただその考えが、どのような形によっても表出されることがなく、身体の、顔付きの、動作の、隅々に漠然とわだかまっている。それが、突然の路上での側転や、恋人への暴力となって激発する。

そんなカナにとって、生活での唯一の慰めは、ナミビアの砂漠と、そこに集まる動物たちの姿を映したライブ配信を眺めることだ。もしカナが、ひと昔もふた昔も前に撮られた映画の主人公なら、退屈な日常からは隔てられた場所に存在するアフリカのナミビアに憧れ、その地を踏むことを夢見たかもしれない。しかし、カナは恐らく、露ほどもそんな夢は見ていない。幻想としてのアフリカ――なんてものはもうどこにもなく、ナミビアはあくまで接続可能な、スマホの画面に収まる、ちっぽけな現実でしかない。

カナはどんな夢も見ない。現実にいつも目覚めている。だがむしろそのことによって、カナの生活は混乱し、ついには精神に変調をきたす。

しかし、それでも生活は、日常は続いていく。喧嘩の絶えない恋人とも決定的な破局は訪れず、本当の意味で狂うことも、自らを擲つこともできない。歪さを抱えたまま、さりとて不幸のどん底、という訳でもなく――。

映画の最後に、カナは恋人と食事を共にする。メニューは、カナの元カレが昔作って冷凍しておいたハンバーグだ。二人はそのことを話題にするでもなく、ぽつぽつと言葉を交わしながら食事をする。このおかしさは何だろう? この沁み透るような哀しさは?

カナは、ぼんやりと諦めているのかもしれない。幸福を。不幸を。
そして映画を観ているぼくらも、やはり諦めているのかもしれない。
この諦めの味は、ぼくらには馴染みのものだ。

しかし、思えば、この曰く言い難い諦めの気分を、具体的な形として提出したのは、本作がはじめてではなかったか? 無論、若者の無気力、無軌道、諦観、そんなものを描いた映画ならごまんとある。生きるということは反復であり、老いも若きも、いつの時代も、同じような道程を経て死んでいく。

しかし、だからこそ、時代は新しい表現を欲する。新しい精神を欲する。
形式という骨組みには、いつだって下し立ての、とびきりセンスのいい衣装が必要なのだ。

だから、やっぱりこの映画は、ぼくらが漠然とその中に生きている諦めの気分に、はじめて形を与えた作品である、と言いたい。それを、ストーリーではなく、あくまでカナの芝居に全幅の信頼をおいて撮り切った監督はすごいし、それを演じ切った河合優実はすごい。

極言すれば、本作はカナ=河合優実を見つめ、その存在を通して時代を、精神を、傷を、悲しみを、喜びを、諦めを、感じ取る映画だからである。

そしてきっとカナのスマホは、今でも、荒涼とした中にオアシスを湛える、ナミビアの砂漠を映しつづけている。


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