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理想のクリスチャン家庭像に殺される

 「クリスチャンどうし導かれて祝福のうちに結婚し、子を授かり、家族で教会に仕え、こうして笑顔に満ちた幸いなクリスチャン家庭が立て上げられていくのです」

 という理想が当然のように語られる割に、その「幸い」を体現する夫婦や家庭がごく稀なのがキリスト教会の現実ではないか。牧師家庭からして、元気そうに見えないケースが少なくない。

 むしろ子どもが病んでしまうとか、妻が病んでしまうとか、表面的には楽しそうだけれど実はこんな深刻な問題がありましたとか、そういうクリスチャン家庭の話ばかり聞く。「グレてどうしようもないこの子が改心するように」と全寮制の教育機関や知り合いの牧師家庭に送られたPK(牧師の子ども)を何人見てきたことか。それは人間を教会の理想の形に「整形」しようとした結果ではないのか。

 宗教を使って人を歪めておいて、「歪んでしまった」と嘆くのはおかしい。当然の結果なのだからだ。こうなると、人を生きやすくするのが宗教なのか、人を食い潰して存続するのが宗教なのか、よく分からなくなる。宗教を必要とする人がいるのは知っている。けれど本当に、本当に必要なのですか? と思ってしまう。

 こういう指摘に対して「上手く行っている夫婦(家庭)も沢山ある」と反論する人がいる。けれど諸条件が整って上手く行っているケースが教会に残り、そうでない無数のケースが教会を離れる(カウントされなくなる)のだから、生存バイアスが少なからず働いているはずだ(離婚を禁止する教会だと特にそうなる)。それに上手く行っているケースがあるからといって、人を「整形」して良いという話にはならない。

 もちろんクリスチャンの多くはシスヘテロで、恋愛と結婚(からの出産と育児)に違和感を持っていない。むしろそうやって家庭を築いていくものだと自然に考えている。だから冒頭のような教会からの要請を「整形」とは考えにくい。むしろ既にある程度「整形」が進んでいて、当然視さえしているかもしれない。

 しかし一般社会のそれに比べて、教会の「整形」ははるかに過酷な場合が多い。どうしても教会中心の生活になるからだ。クリスチャン家庭だと1週間のどこにも休みがなかったり、生活上の制約(テレビ禁止など様々)があったりする。教会ではいつも明るく笑顔で、品行方正に振る舞わなければならない。問題があっても誰にも相談しづらく、絶えずストレスを抱えた状態になりやすい。しかもそれが何年も何十年も続く。こんな状態で、何かしらの破綻をきたさない方が奇跡ではないか。

 しかも昨今は「クリスチャンどうしの結婚」がどんどん難しくなっている。クリスチャンの絶対数が減っているからだ。婚姻率も減少の一途で少子化も止まらない。「クリスチャンどうしで結婚して子をもうけて、幸せなクリスチャン家庭を築く」のは、もはや特権とさえ言えるかもしれない(しかもその特権を享受できたとしても、上記のような抑圧と苦労を強いられる可能性が高い)。

 教会はその現実を直視して、そろそろ「理想のクリスチャン家庭」言説を修正すべきだと思う。でないと一部の幸運かつ幸福な人々のために、不幸な人々をさらに増やすことになる。教会の良心が試されている。

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