見出し画像

カメラの向こうに

私の趣味のひとつに、写真撮影がある。
まだガラケーだった時代から携帯で写真を撮ることにはじまり、父のカビの生えた古い一眼レフで写真を撮ってみたり。
とにかく何かの瞬間をそのフレームにおさめるのが大好きなんだ。

私がようやく自分の一眼レフを手に入れたのは自分のがんの治療が落ち着いた頃だった。
どうせいつか死ぬなら、と思い切ってアウトレットを覗いてみたらずっと欲しかった機種が半額くらい(型落ちの名機)になっていた。
私は嬉々としてカメラを購入した。
それからはまだ小さかった姪っ子の写真撮影に没頭した。
ほんのちょっとの瞬間が、特別な一枚になるような気がして、
この趣味は大いに周りの人達を喜ばせた。
我が家の年老いた両親はもちろんのこと、義兄の実家、一緒に遊んだ姪っ子のお友達の両親達などなど、元来人を喜ばせるのが大好きな私はとても嬉しかった。

そんな一眼レフの撮影の相方をしてくれたのは今は亡き母だ。
一眼レフを買った頃には末期がんが見つかっていて、母と過ごせるタイムリミットが迫っているにも関わらず、照れ臭さと、母が亡くなるという現実を直視したくなくて、母にカメラを向けることはほとんどせず、一緒に行った場所の景色を撮ったり、お気に入りのぬいぐるみを記念撮影したりに留まった。

母の写真を、“死後のために撮る”というのもなんか嫌だったので、家族でバーベキューした風景や、孫と遊んでいるところなど、イベント時は必ず撮影するようにした。
それまであまり家族写真を撮る機会がなかった私たちは、この趣味で一冊アルバムができた。
たまにアルバムを開いては涙しているが…

私が、カメラを買って一番良かった、と思うのは、みんなが自然体でいてくれること。
かしこまった写真館の撮影とは違って、いつもの顔が撮影できる。
気取らない、自然体の笑顔がそこには写っていて、家族はとても私の写真を褒めてくれた。
カメラを向ける人の存在が、相手との関係性を表すのかもしれない。
言語化するのが難しいけれど、一枚の写真がそこにあるとしたら、そこには必ず撮り手の存在があるはずだ。

あなたの子供の頃の写真、誰が撮影したものだろう。
そこにノスタルジーを感じてしまう。
私も私が亡くなったあと、私の撮った写真を展示してほしい。
私から見た世界はこう写ってたんだよって、伝えたい。

このnoteもそうだけど、私の何かを誰かにどこかに伝えたい。
そう思ってやまない夜。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?