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宗教のナントカ

こんばんは。
むすびです。
今日のテーマは宗教のナントカについて。

ナントカってなんだよって思うかもしれないけど、ナントカとしか表現できないというか…

まず、はじめに注釈をつけておくがどの宗教も貶めるなどの内容ではありません。
決して批判などではありません。

こういう人間の本質に触れる内容って、とっても書くのが難しい気がするけど書いてみようと思ったから、私の考えを書いてみよう。

普段、私たち日本人は宗教についてあまり考えたことがないと思う。
よくある数多の神々が存在する国である。
誰が何を信じようと、信じてなくとも、自由、みたいな。
でもその根底にはしっかりと宗教観が身についていて、何か心に刺さる出来事なんかがあると心の中にある“ボンヤリとしたナントカ”が拒否を示したり、感動したりもする。

それとは別に、他の宗教を良しとしない文化の人たちもいる。
こちらが無宗教、無神論者となると必死で説得しようとする宗教観の人たちもいる。
それはそれで生ぬるく生きてきた日本人にはとても刺激的な体験となるだろう。

私は良し悪しの話をしたいんじゃない。
人が死に触れた時、死が間近に迫った時、やっぱりそういう宗教のナントカみたいなものが必要だと思った。
何かを信じてる、心の底から。
そんな思いを持って生きている日本人てそう多くはないだろう。

そう思うと、必死で説得しようとしてくる強い宗教観を持った人たちは、やっぱり死に直面した時強い気がする。

信じるものがいる者といない者、この差は大きい気がする。

だからこそ、自分が死というものに吸い込まれそうになった時、そういう存在が必要なんだと思う。
ちゃんと学んだ訳ではないから詳細は省くが、日本にもやはりスピリチュアルケア(いわゆる一般的なスピ系の意味ではない)の重要性が唱えられていて、臨床宗教師という人たちがいるのをテレビの特集で知った。
ここで念の為引用。

 「臨床宗教師」は、被災地や医療機関、福祉施設などの公共空間で心のケアを提供する宗教者です。「臨床宗教師」という言葉は、欧米のチャプレンに対応する日本語として考えられました。布教や伝道を目的とするのではなく、高度な倫理に支えられ、相手の価値観を尊重しながら、宗教者としての経験をいかして、苦悩や悲嘆を抱える方々に寄り添います。 仏教、キリスト教、神道など、さまざまな信仰を持つ宗教者が協力しています。

東北大学文学研究科実践宗教学寄附講座HPより引用

死ぬのは怖い、怖いよね。
私は子供の頃から人は死んだらどうなるんだろう。意識はどうなるんだろう。などと考えてばかりいる子供だった。
大人になり、様々な人を知り、もちろんその答えは自分が永遠に瞼を閉じる時に知ることになるんだろうけど、この人たちの活動ってこれからとても重要な気がする。

昭和くらいの日本人の暮らしって、家に年寄りも子供もいた時代だった。
自然と、老いて死ぬ姿を見せてもらえてたと思う。
逆に今は核家族で気づいた時には老いて死んでいく…という時代な気がする。
だからこそ、死が遠いものであり、怖いものなのかもしれない。
人が死んでいく姿、生き物が死んでいく姿を見せてもらえるのはとてもありがたいことなのだと今は思う。(決して娯楽という意味合いではない生き様死に様である)

そんな死から遠ざけられた私たちこそ宗教のナントカのナントカに値する何かの輪郭を見つけておきたいのだ。その日が来るまでに。
一度スピリチュアルケアについて学んでみたいと自分の中の目標にひとつ、掲げている。
きっとそんなこと思ってる人って少ないんだろうなぁ〜。
これが私の生きづらさのひとつでもあると言われる要因。
もっと気楽に生きたら?って言われるけど…ね。これも私の個性の一つなんだろう。

そんなわけでおやすみなさい。

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