『おおかみこどもの雨と雪』評:花は賢母に描かれてるか、それとも愚母に描かれてるか。

 弟子の万章がたずねた。
「舜は、毎日田に出かけると、声をあげて泣きながら慈悲深い天を仰いで訴えたり、父母の名を呼んだりしたとのことですが、どうしてそんなに泣き叫んだのでしょうか」
 孟子はこたえられた。
「それは父母がどうしても愛してくれないのを怨めしく思い、親を慕う心を天に訴えたのだ」
 万章がいった。
「古語には『父母が自分を愛してくれれば嬉しく思って忘れず、もしも父母が自分を憎むようなことがあれば、自分が至らぬからではないかと案じて、怨み心など抱かぬものだ』とあると聞いておりましたが、先生のお話によると、舜は父母を怨んだのでしょうか」
 孟子はこたえられた。
「むかし、長息というものがその先生の公明高に向かって『舜が田に出て働いたわけは、ご説明でよく分かりましたが、声をあげて泣きながら慈悲深い天を仰いで訴えたり父母の名を呼んだというのは、私には分かりかねますが』とたずねたところ、公明高は『それはとてもお前には分かるまい』と答えたそうだ。
 おそらく公明高は『孝子の心というのは、そんな冷淡なものではない。つまり、自分は力いっぱい田を耕し、子としての職分をあくまで尽くすまでのことだ。よしんば親が自分を愛してくれなくても、別になんでもないことではないか、などというような冷淡なものでは決してない』と考えたのだろう(だから、舜が天を仰いで泣き叫んだのは、親を慕う情の切なるがためで、止むに止まれなかったのだ)」
 『孟子』万章章句

 弟から「『おおかみこどもの雨と雪』は最高だ。絶対見た方が良い」と勧められても全く気が向かなかった。「どーせ、陳腐なビルドゥングスロマンか、親子のお涙頂戴物語だろう」と決めつけていた。 (私は泣かせるドラマというものが大嫌い)
 それでも気には掛かっていて、ふと本屋で見つけた原作小説に手を伸ばして……、先入観を尽く裏切る展開に驚いた。
 あれは母親礼賛物語とは言い切れないと思った。

 改めて映画も拝見して思ったのは、おおかみこどもである『雪』の強烈なインパクト、爆発的可愛さを持つ『雪』というアイコンの力だ。『雪』のビジュアルによって、『おおかみこどもの雨と雪』が持つ寓話性は軽く消し飛んでしまう。小説を先に読んでよかったとつくづく思う。
 『おおかみこどもの雨と雪』は賛否両論多く、解釈はやり尽されていると思う(しかも周回遅れ)。
 私は『花』と『雨』の関係、次郎物語との符合に注目し、できるだけ独自視点から分析したいと思う。

●『おおかみこども』の寓話性
 映画の冒頭では『雪』の『おとぎ話だって笑われるかもしれません。そんな不思議なことある訳ないって』というナレーションが入るが、小説ではそういった言葉はない。
 そんな言葉を挿んだら、洒落ではなく、おとぎ話・寓話として読めてしまうからだろう。故に、おとぎ話という言葉は、ラストで花の述懐として登場する(序盤にちょっと無理な比喩『おとぎ話に出てくるような赤い三角屋根の古い駅舎』という言葉が入るのは意図的だと思う。『レトロな赤い~』でいい)。
 雪景色で遊ぶ一家の光景は、映像にしたとき映えるだろうなぁと想像して読んでいたが、映画の視点を固定した狭いアパート光景、コロコロ姿を変えて動き回る『雪』の現実性は想像を超えていた。視聴者へ強烈なファンタジーを印象付けただろう。
 改めて言う、『おおかみこども』が比喩、真っ赤な嘘であったとしても話は破綻しないと思う。あの強烈な『雪』のインパクトがない小説を読むと頓にそう思ってしまう。
 そもそも幼子の生命力……、落ち着くこと、我慢を知らない幼子らは獣、どころか怪獣に例えても大げさでない程だから(世の親の手はこんがりと焼かれているだろう)。そして『おおかみこども』だから都市に暮らせないのではなく、『こども』が都市から排除されるという現実問題が透けて見える(移住は奇しくも孟母三遷となったか?)。
 齟齬を強いて挙げるなら、イノシシ除けにオオカミのおしっこが利いたという事くらいだ(説明がつかなくても問題なし、どうでもいい事だ)。

●コミュニケーションの問題は『花』か『雨』か
 寓話として物語を見直したとき、何が現れるか。『おおかみこども』とは何を指しているだろうか?
 広義の『マイノリティー』であると考えるのが妥当だろう。
 カテゴライズしたとき、その枠組みから外れてしまうもののことだ。例えば『男の子』『女の子』と分けると、人は『男の子らしさ』『女の子らしさ』という枠組みを同時に作ってしまう。その枠組みに生き辛さを感じる人が『マイノリティー』である。
 『雪』は成長過程で『グラウンドで快活にはしゃぎ回るよりも、静かに本を読むことを好むようになった』と変化、『女の子らしさ』を得るが、それを好む『男の子』もいるのを忘れてはならない。それどころか過去に『男の子らしく、グラウンドで快活に遊びなさい』と言われて絶望したという男性の話も聞く。
 どうしても『らしさ』から逸脱してしまう子、普通には生き辛い子、それが『おおかみ』と考えられるのではないだろうか。『おとなしくて内省的だった。頑固で引っ込み思案で泣き虫で甘えん坊で心配性だった』という『雨』は所謂『難しい子』のようである。

 さて、草平の前で自分を抑えられなくなった『雪』の声が、『しゃがれた声』『自分でも驚くような醜い声』というのは『七匹の子ヤギ』で母ヤギに化けたオオカミをイメージさせるが、全体を通してみるとイソップ寓話の『嘘をつく子供』を考えてしまう(本来、オオカミに食べられてしまうのは子供ではなく、話を信じなかった羊飼いたちの羊だという)。
 嘘が焦点ではない。
 自分の言葉を信じられない、対話の力を信じていないというところだ。それが自分の声に対する嫌悪として表れる。
 『雨』は分かり易いだろう、しかし母の『花』もまた自分の言葉に自信がなく、世間との繋がりが断絶している様子がある(都市生活において顕著に。移住後やや解消か)。
 それが母子関係に暗い影を落とすことへと繋がっていく。

●徒労を重ねる母、無力な母
 一番の象徴的エピソードは、『花のように笑顔を絶やさない子』『――つらいときや苦しいときに、とりあえずでも、無理矢理にでも笑っていろって。そしたらたいてい乗り越えられるから、って』という亡き父から授かった教え、『花』の人生哲学が韮崎老人に否定される展開だ。
 『伏線だろうな』そう高をくくって読んでいた私は強烈なカウンターパンチを受けた。
 都市生活では外部の不理解によって排除された形のように見えた『花』だったが、「共同体の子ども」「子育ての共同体」に入ったとき、『花』は自分の不理解を指摘される (家庭菜園の失敗等、ハッキリ指摘する登場人物は韮崎老人くらいだが) 。
 一方、余所余所しい『雨』との関係からも色々と母の不理解、無力な母が現れることになる。孟母三遷が空振り、否定されたお民と似てなくもない(メタ的告発。物語上のトラブルが起きるわけではない、ただ読者に違和感を覚えさせる)。


 「共同体の子ども」「子育ての共同体」について考えるに、思い出すTVドラマがある。2000年に放映されたNHKの連続テレビ小説、内舘牧子さん脚本の『私の青空』だ。

 シングルマザーについて知りたいと思って、軽い気持ちで見た(結果、私が欠かさず見た唯一の連続テレビ小説となった)のだが、シングルマザーが主題というより『古き日本の子育て』、のびのびと育つ子供を核とする長屋的共同体(落語に登場するような)のドラマである。
 田畑智子さん演じる北山なずなは、息子の『太陽』に対する愛情こそ強いが、頑固で思慮が浅かったりする欠点の多い女性……、間違っても賢母とは言えない人間として描かれている(生き生きとした魅力は存分、『花』と符合するところがある)。彼女を取り巻く人々も皆どこかに欠点のある一癖ある人物ばかりだが、『太陽』の前では目先の利、損得など考えず、教育責任者の一人として行動する。『太陽』は「共同体の子ども」として育てられる。『おおかみこどもの雨と雪』では、そこまでの「共同体」が描き切れなかったと思う。
 私は特に、あき竹城さん演じる星小百合が良かった。特に『ジャガイモの芽』のエピソードが好きだ。


 
 話を戻そう。無力な母を象徴するといえば、『雨』が渓流に転落するシーンか。あれも『『花』が間一髪で助けるんだろうな』と高をくくっていたので、見事に肩透かしを食らった。
 『花』と『雨』の関係を暗示しているようなシーンだ。

 この先は特に[個人の感想です]という断りを入れておくべきかもしれない。ただ、酔狂で書いてないことも断っておく。

●[ちゃんと育てる]:呪縛を生む『母親の責任』
 『花』は彼の免許証の写真に向かって誓う、≪任せて。ちゃんと育てる≫と。
 [ちゃんと育てる]とは何だろう?この言葉こそ『母のメンツ』を抱いてしまう愚母の端緒だと思う。
 メンツの向く先が子供であるならば良い。しかし、『母のメンツ』というのは外向きのであることが多いと思う。世間=同級生の母親ばかり見て、子供の置かれた状況に気が付かないような。
 そして母子のディスコミュニケーション結果、母の過干渉、過ぎた舵取りが発生する。
 例えば、
『Aが将来幸せになるなら、今どれほど過酷でも我慢する』
 過酷な状況を我慢しているのがA本人であったら本末転倒だと思うが、それに気付けない人はしばしばいる。

 空論になってきた、本筋に戻そう。
 『花』は『おおかみとしての生き方を、どうやったら教えてあげられるだろう』と思い悩み、「新川自然観察の森」のシンリンオオカミを訪ねる。
 『おおかみ』を『eスポーツ選手』『ユーチューバー』等、とにかく自分が教授できない将来の夢(そう、学校に通わなくても叶う夢。決して少なくない)に置き換えて考えてほしい。無理な舵取りが如何に無謀か分かるのではないだろうか?
 働きながら野生動物の生態を学べると考え、『花』は自然観察員の補佐の仕事に就く。
 ……『雨』の将来を見据えた母の愛の行動だろうか?しかしながら私は的外れではないかと思う、自分には不十分にしかできない指導をするよりは……、湖人先生なら先ず今の『雨』に愛情を注ぐことを勧めるだろうか。
 『雪』と比べ、『雨』と『花』のコミュニケーションはどうも踏み込み切れていないと私は感じてしまう。

 その答えは続く展開から見出せるかもしれない。
 『花』の労苦をあっさり無視して、『雨』はアカギツネの『先生』を見つける。果たして『花』は『先生』を本心から受け入れているだろうか?
 姉弟喧嘩のシーンがとても重要だ。
 『花』が思わず言ってしまう『やめなさいふたりとも‼』という言葉、あれは裏切りの言葉となる。
 教育相談の中に時々『兄弟喧嘩の時、どちらを叱るべきか?』という質問がある。
 『非のある方を叱る』ことができないのは親にとって辛いジレンマかもしれないが、発端が水掛け論ではなく主義・主張であるなら、蔑ろにしてしまうと取り返しのつかないことになる。即ち、「ああ、理由を言っても無駄なんだな」と、対話を諦めてしまうことになりかねない(内省的な子がそうなってしまうと大変)。
 『花』は「学校に行きなさい」という『雪』の主張と、それを拒否する『雨』を真っ向から受け止め、二人に自分の考えを返すべきだった。
 あの喧嘩によって分かれたのは姉弟の道ではなく、母息子の信頼ではなかったかと私は考える。

●別れの際に謝る母、失敗を認める母
 クライマックスの『雨』との別れの際、『花』は次の言葉を口にする。

(夫の幻に向かって)「ううん。全然。失敗ばっかり」
「だって……私、まだあなたに何もしてあげてない」

 私はここに次郎物語第一部と符合する精神構造を見て取った。次郎物語第一部では、死の淵にあるお民が次のような言葉を漏らす。

「あたし、この子にも、お前にもほんとうにすまなかったと思うの」
「子供って、ただかわいがってやりさえすればいいのね」
「あたし、このごろ、いつもこの子に心の中であやまっているのよ」

 あれは著者の願望が発露、反映されたシーンではないかと思う。
 孟子に丁度良い話があったのでそれを引用しよう。

 公孫丑がたずねた。
「先生、高先生は『詩経の小弁しょうはんの詩はつまらぬ人の作ったものにちがいない』と申してますが」
 孟子はいわれた。
「なぜそういうのかね」
 公孫丑がいった。
「親を怨んでいるからだそうです」
 孟子はいわれた。
「ずいぶん固陋だね。高老人の詩の解し方は。
 たとえば、ここに一人の男がいるとして、その人に向かって、見知らぬ遠い越の国の人が弓を引いて射殺そうとした事があったとしたら、その人は後になって嘲笑しながら平気で『こんな事もありましたよ』と話すことだろう。それは外でもない。自分と越の人は関係の疎い他人だからだ。
 ところが、その弓を引いて自分を射殺そうとしたのが、もし兄であったならば、その人はそれこそきっと涙を流しながら『こんな口にしたくないこともありましたよ』といって人に話すに違いない。それは外でもない。肉親の兄を親しみ愛しているからこそ、その行ないをいっそう深く悲しむのだ。
 ところで、かの小弁しょうはんの詩もこれと同じで、親の過失を思い余って怨んだまでで、つまりは親を心から親しむ至情からなのだ。この親を親しむ心こそ、すなわち仁のあらわれなのだ。
 [この道理が分らぬとは、さてさて] ずいぶん固陋なものよ。高老人の詩の解し方は」
 公孫丑がまたたずねた。
「では、あの凱風がいふうの詩の場合では、なぜ母親を怨まないのでしょうか。」
 孟子はこたえられた。
凱風がいふうの詩の場合は、母親の過失が小さなものであり、小弁しょうはんの詩の場合は、父親の過失が大きいからだ。
 親の過失が大きくとも怨みもせず平気でいては、ますます親を疎遠にすることになる。さればとて、親の過失が小さいのにすぐ腹を立て親を怨むのは、心の中で諫めても無駄だと見限ってしまうからである。
 親を疎遠にするのももちろん親不孝であるが、親を見限るのもまた親不孝である。だから、孔子も『舜こそこの上なしの親孝行ものだ。五十になっても、なお親を慕って泣いたのだから』といわれたのである」
 『孟子』告子章句

 激しい嵐の山中に『花』をさ迷わせたのは、
 「待って……待って!」と追い縋らせたのは、
 理想の母の体現ではなく、母への愛憎を投影だと思う。

 私は『おおかみこどもの雨と雪』を母への怨慕の物語、理想の母の偶像を作るのが目的ではなく、母への愛憎を表現にした作品だと思う。

 なお『次郎物語』では、第二部のラストで次郎はようやく母への思い、愛への渇望を昇華するに至る。

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