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肩の力を抜くために。

むかし、現役時代の貴乃花(現・貴乃花親方)が、雑誌のインタビューで自身の目標についてこんな感じの話をしていました。

曰く、自分の目標とするところは「自然」である。自然に生き、自然に土俵に上がり、自然に相撲をとることである。けれども自然であろうと意識してはいけない。それは不自然になってしまう。言葉にするのはむずかしいが、めざすところは自然である、としか言いようがない。


わかるようでわからんような、とても不思議なインタビューだったのを憶えているのですが、最近「こういうことなのかなあ」と思い当たる事例を身近なところで見つけました。

エッセイと呼ばれる分野において、ときどき「肩の力が抜けてる文章」を目にするじゃないですか。いいなあ、肩に力を入れることなく、すぅーっと筆を走らせてるなあ、すなおで伸びやかだなあ、というような文章。ぼくなんかからすれば、ほんっとあこがれの文章ですよ。

で、自分がそういう文章を書こうとすると、肩の力を抜いたつもりが、「手を抜いた文章」になってしまうことが多いんですね。

肩の力を抜くことと手を抜くこと。これって5万光年くらいかけ離れた話なんだけど、やってる当人は意外に気づかなかったりするものなんです。


じゃあその違いはどこにあるかっていうと、肩の力を抜いた人の言葉は「心の観察」に徹していて、手を抜いた人の言葉は「口先の観念」に走ってる。そんなふうに言えるような気がしています。

小泉今日子さんのエッセイ集『黄色いマンション 黒い猫』を読んで、そんなことを思いました。いい本でしたよー。