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物書きたちの逃げ道。

最晩年のニーチェに、『この人を見よ』という作品がある。

最後の著作でもある本書は、彼の自叙伝だ。自叙伝だということはつまり、タイトルにある「この人」とはニーチェその人である。ヨハネによる福音書からの引用でもある「この人を見よ」は、「おれを見ろ」なのだ。その目次に並んだことばからして、もうすごい。

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・なぜわたしはこんなに賢明なのか
・なぜわたしはこんなに利発なのか
・なぜわたしはこんなによい本を書くのか
・なぜわたしは一個の運命であるのか

ぼくはニーチェの研究者でもないし、彼の著作も(本書を含めて)数冊しか読んだことはない。なので通り一遍なことしか言えないけれど、ひと言でいって生前の彼は不遇な人だったのだと思う。現在のように思想界のスーパースター的な地位が確立されたのは、死後何十年も経ってからのことだ。

そういう不遇な生涯を送ってきた彼が、「この人を見よ」と叫ぶ。「なぜわたしはこんなに利発なのか」を語り、「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」と、自著を振り返る。研究者たちの評価は知らないけれど、ぼくはこの本が大好きだ。


そのうえで思い出されるのが、ゴッホである。

いまから十数年前、彼と弟のテオの墓があるオーヴェルの村を訪ねた。彼が最後の数か月を過ごしたラヴー亭は「ゴッホの家」として改修・公開され、彼の部屋もそのままのかたちで残されていた(1階のカフェは現在も営業している)。

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ラヴー亭にはパンフレットが置いてあり、そこにはゴッホが弟のテオに宛てて書いた手紙の一節が紹介されていた。正確な文言は忘れたものの、およそこんな意味のことばだった。


「いつか、ここでぼくの個展が開けたらと思うんだ」


彼の願いをかなえるべく現在、われわれはゴッホの絵を買い取ろうとしているのだが、いかんせんどの絵も高騰しすぎて手が出せない。だから、彼の夢をかなえるためにもどうか寄付に協力してほしい。われわれに、世界でいちばんちいさなゴッホの個展を開かせてほしい。そんな協力を求めるパンフレットだった。読んで、ぽろぽろ涙がこぼれ落ちた。


で、思うのである。

もしもニーチェが画家だったなら、「この人を見よ」状態にはならなかったんじゃないかと。

これは若いころのぼくもそうなのだけど、自分が評価されていないことについて物書きは、「まだ(読まれるべき人に)読まれていないんだ」と考えることができる。仮に読まれていたとしても、「みんな読めていないんだ」と考えることもできる。みんなしっかり読んでいない。しかるべき人がちゃんと読んでくれたら、自分の原稿は認められるはずだと考えることができる。

一方で画家や写真家の人たちには、そういう逃げ道が(少なくとも物書きよりは)少ないのではないだろうか。読解力以前のところで、見た瞬間に勝負が決まってしまう、身もフタもない世界に彼らは生きているのではないだろうか。——もちろんゴッホのように、後年になって再評価されるようなことはいくらでもあるのだけれど。


雑誌のライターをやっていたころ、書きたてホヤホヤの(それだけ締切ギリギリの)原稿を目の前で編集者さんが読む、という現場を何度も経験した。無言で、眉間にしわを寄せたまま、目の前で原稿を読まれているあいだのヒリヒリは、いまでも克明におぼえている。ため息(鼻息?)ひとつでも聞こえようものなら、それだけで胸をえぐられ、脇に汗をかいた。あれは少し、絵画の品評に近い経験だったのかもしれない。

まあ、実際の話をいうと原稿も、「見た」瞬間にほとんど勝負は決まるものだとぼくは思っている。立ち読みの直感は正しいし、最初の1ページがつまらなければもう、なかなかその評価は覆らない。「しっかり読めばおもしろい」はありうる話だけれども、それとて「パッと見もおもしろい」ものであるべきだ。「しっかり読めば、もっとおもしろい」が理想だと思うのだ。もちろん、刊行から何年も経って「発見」される本は、ぼく自身の経験だけでも何冊もあるんだけどさ。


うーん。最近「学校」のなかでなにを話すかいろいろ考えていて、その備忘として、まとまらないままの話を書いてみました。


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バトンズの学校、応募締切まであと5日!
まだまだ余裕で間に合います!