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お酒を飲むこと、飲ませること。

先日、はじめて「ストロングゼロ」というお酒を飲んだ。

アルコール度数9%、つまりビールの約2倍という缶チューハイだ。近所のスーパーではこれの350ml缶が100円で販売され、おそろしいことに緑茶や水よりも安い飲みもの、として出回っているのだ。べたべたした甘さがなく料理に合わせやすいこと、1本で気持ちよく酔えること、糖質やプリン体がゼロであること、そしてなんといってもべらぼうに安いこと、などから若者から中高年まで、幅広く支持されているのだと聞く。またインターネット上では、その酩酊のしやすさを揶揄した、以下の画像も有名だ。

最近めっきりお酒に弱くなったぼくも、見事2本でくらくらになり、もはや無茶な飲み方はできないのだな、と肝臓をいたわる薬を飲んだりして養生したのだけど、お酒のコマーシャルを見るたびに思うことがある。


子どものころ、ぼくはお酒をどんな目で見ていたのだろうかと。

元日の朝におとそを飲んでみたり、親戚が集まった宴会の席でからかい半分にビールを少し飲まされたり、そこで「おいしい」なんて言ってみて、「おお、史くんは将来大酒飲みになるぞ、がはははは」などと笑われたりの経験はあったにしても、さすがに「酔う」という状態がどういうものかは、よくわかっていなかったはずだ。

おとなたちがあんなにうれしそうに飲むお酒を、あれほど前後不覚になってしまうお酒を、あるいはそのテレビコマーシャルを、さらには「ぼくはまだ飲んじゃダメだけど、おとなたちは飲んでもいいもの」が存在するという事実を、ぼくはどのように受け入れていたのだろうか。

いいなあ、と思っていたような気もするし、みっともないなあ、と思っていた気もする。ただ、ぼくも早く飲んでみたいなあ、と思っていたというよりも「ぼくも早く仲間入りしたいなあ」が大きかった気がする。ビールが飲みたいとか、酔っぱらいたいとか、そんなことよりともかく、ぼくもあそこに行きたい。あの席に着きたい。そればっかりだったような気がする。


会員制のコミュニティビジネスとか、サロンビジネスみたいなものから漏れ伝わってくる写真やことばも、たいていは酩酊状態に映るものだ。おそらく気持ちいいのだろうし、存分にたのしんでいただきたいのだけれど、そのたのしさの半分以上が親戚縁者の酒盛り成分でつくられていることもまた、忘れてはいけないし、年端もいかない子どもを誘うことには慎重であってほしいなあ、と思うのだ。