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かっこいい大人の、その条件。

きのう、今年はじめてとなる「塩レモン鍋」を食べた。

「くぅー。やっぱ大好きだよ、この味」。うなり声をあげつつ、シメのチーズリゾットまで一気に食べあさった。さらに今回、糸井さんのおすすめにしたがって、パクチーやポテトチップスのトッピングを試みた。これがまたもう、ほんとにおいしい。この「塩レモン鍋」は久々の大ヒットだ。ぼくとしては春菊の代わりに大量のクレソンを使うことを、おすすめしたい。

鍋といえば学生時代、ぼくは福岡国際センター近くのしゃぶしゃぶ屋さん、その厨房でアルバイトに励んでいた。店長さん、店長の弟さん、それからバイトリーダーの先輩たちに、たいそう可愛がってもらった。ふつうの学生だったらとても食えないようなおいしいものを、たくさんごちそうになった。ぼくのなかにある「格好よくごちそうできる大人でありたい」の原体験は、間違いなくあのころの店長たちにある。

何万円ものステーキをおごってくれることよりも——たとえそこが大衆的な焼鳥屋や餃子屋であろうと——「こんなにおいしいお店を知っていること」や「こんなお店の馴染み客であること」のほうが何倍も格好いいことを、店長たちは教えてくれた。しかも、(その人にとって大切な)馴染みのお店に連れて行ってもらうことは、どこかレギュラーメンバーに選出されたようなうれしさが伴う。「古賀くんは、この店に来てもいい」と認めてもらえたような高揚感が、当時のぼくにはたしかにあった。

格好よくごちそうできる大人でありたい。

そう願いながらもう、当時の店長よりずっと年上になった自分がいる。ごちそうのできる金銭的余裕があるだけでは全然だめで、格好よさとはやはり、経験だけがつくってくれるのだと思う。