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年末年始と、今年の抱負。

というわけで、2020年の仕事はじめである。

むかし、この冒頭にもってくる「というわけで」がひどく苦手だった。これはラジオパーソナリティーの人びとに顕著な話法で、番組のタイトルコールをおこなったあとに大体「……というわけで本日もはじまりました、我々〇○○ですけれども」などというように使われることばだ。聴きながらぼくは毎回「どういうわけなんだよ!」と憤っていた。お手軽なあいさつに逃げてんじゃねえよ、と。

なんて若き日の義憤とはまったくの無関係に、仕事はじめである。

年末年始はおもに、考えごとをしたり、犬の散歩をしたり、録りためた映画を観たり、Netflixを観たり、また犬の散歩をしたり、考えごとをしたり、料理をつくったり、そんな感じで日々が過ぎていった。

年のはじめの note なので、新年の抱負、みたいなものを書き綴っていってもいいのだろうけれど、少なくとも今年のぼくにかぎっては、それがいらない。もう、やることは決まっているのだ。とりかかっているおおきな本を書き上げて、あとはその後に考える。書き上げないことには「次」なんて見えてこないし、書き上げればきっと「次」が見える。そういう本をいま、ぼくは書いている。ある意味、転機の年になると思う。


年末年始にできなかったことの筆頭はやはり、読書だ。

じつをいうとこの年末年始、数年ぶりに『カラマーゾフの兄弟』を読もうと思っていた。でも、その前の肩ならしとして、『ゴッドファーザー』の原作を読もうとした。よく知られているように原作者マリオ・プーゾは、『カラマーゾフの兄弟』のカラマーゾフ家に着想を得て、コルレオーネ家の物語『ゴッドファーザー』を書き上げている。けれどもぼくは原作を読んだことがなく、まずはそっちを読んでみよう、というのがクリスマスあたりに立てた密かな目論見だった。長兄ソニーとドミートリー、次男フレドとイワン、末弟マイケルとアレクセイ、そしてトム・ヘイゲンにスメルジャコフ。原作の『ゴッドファーザー』を読んだ直後に『カラマーゾフの兄弟』を読めば、またこれまでと違ったエクスペリエンスが得られるのではないか。

そうして本を読みかけた瞬間、「だったらいっそ、映画版の『ゴッドファーザー』をもう一度観たほうがいいんじゃないか」とのアイデアがあたまをよぎった。映画を観て、そのルーツである原作を読んで、両者の違いを堪能したのち、さらに原作のルーツであるカラマーゾフを読む。おお、なんてぜいたくな年末年始だ。ぼくは映画『ゴッドファーザー』を観た。何度観てもすばらしい。観るたびに発見があり、感動がある。

で、『ゴッドファーザー』の素晴らしさを堪能したぼくは、新旧の比較がしてみたくなってきた。つまり、2019年最大の話題をさらったマフィア映画『アイリッシュマン』を観て、『ゴッドファーザー』との違いを考えようと思い立ったのだ。

『アイリッシュマン』、それはそれは素晴らしい、予想をはるかに上回る大傑作だった。Netflix、すごい。そうなると、同じくNetflix作品として話題をさらっている『マリッジ・ストーリー』が気になってくる。観た。

もっと『クレイマー、クレイマー』な映画を予想していたけれど、違う。ああ、この感じはなんだっけ。そうそう、あれだと『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を観た。

この時点でもう、とっくに年は明けている。

違う、違う。おれは『カラマーゾフの兄弟』が読みたかったのだ。そんで余計なことに『ゴッドファーザー』を読もうなんてバカなことを思いついたからこんな迷宮にはまっていったのだ。戻れ、カラマーゾフに。

うすうす正月休みのあいだに読了できないことを悟っていたぼくは、自らに言い訳するように映画版の『カラマーゾフの兄弟』を観た。1969年のソビエト映画だ。

DVD3枚組で、かなりていねいにつくられた映画だけれど、ソビエト時代ということもあってか、たとえば大審問官のくだりがまるまるカットされていたり、原作を読んでいない人間にはなかなか理解しがたい速度で物語が進行していったり、やっぱり小説を映画化するのはむずかしいものだよなあ、という当たり前の感想しか湧き上がらなかった。

で、そうなれば当然、原作版『ゴッドファーザー』と映画版の違いが気になってくる。いまから読むか、あるいはもう一度観てから読むか。迷いまくっていたあたりで、ぼくの正月休みは終了した。


今年の抱負をあえて挙げるなら、「今年こそは年末年始に『カラマーゾフの兄弟』を読む」、それだけである。