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そんなわたしが変わるとき。

きのう、第28回「文学フリマ東京」に行ってきた。

こういう同人系のイベントを訪ねてみたのは、はじめてのことだった。友人の浅生鴨さんが3つの本(文庫本2冊と小冊子ひとつ)を出品し、小冊子にはこれまた友人の燃え殻さんも寄稿し、解説を田中泰延さんが書いているという。そりゃあ読んでみたいし、こんな機会でもなければぼくは休日の時間を割いてこういう場所に足を運ばないだろう。飽きもせず犬と公園に出かけてみたりするのだろう。

そんな小冊子の制作に追われていた鴨さんが、本番3日前くらいのタイミングで「よければ古賀さんもなんか書いて送ってくださいよ。短編だから1日あれば書けますって」と言ってきた。面倒ごとを自ら増やしていく癖のある鴨さんらしい話だけれど、とりあえずぼくは「むかし書いた短編を探してみて、見つかったら送ります」と答えた。すると鴨さん、おどろいた。

「えっ!? むかし書いてたんですか?」


そうだ。ぼくはむかし、いくつかの小説を書いていたのだ。

小説というにはあまりに短く、短編と呼ぶにもとりとめもない掌編を、いまから20年以上も前、せっせと書いていた。フリーになったばかりで、仕事もなく、お金もなく、時間と焦りだけががある若者だったぼくは、なにもしていない(できていない)自分のうしろめたさを埋めるように、発表するあてもない掌編を書き続けていた。気のおけない友人たちに読ませることはあっても、たとえば同人サークルに所属したり、もっと長いものを書いて文学賞に応募したりする発想はぜんぜんなかった。


やがて仕事がぽつぽつ入るようになり、わんさか入るようになり、ライターっておもしろい仕事だなと思えるようにもなり、なんだかんだと20年以上の歳月が流れ、いま「ライターの教科書」みたいな本を書こうと四苦八苦している。それを書いている時間が、ほかのなによりも充実している。

いつかどこかでもう一度、小説を書いてみようと思う日がくるのだろうか。

くるタイミングがあるとすれば、ライターとして今後やるべきことが見えなくなったときだろう。そしていまつくっている「教科書」を書き上げたら、そんなふうに考える自分がいるのかもしれないと、思ってみたりもする。


この本を書くことで、いちばん変わるのは自分なんだろうな。