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不謹慎と和解しよう。

たぶん、誰にでもいくつかの「すべらない話」が存在する。

むろん、ぼくにだってある。とてもここでは書けないようなひどい話を含め、いくつもある。なかでも、20年以上にわたって酒の席で使っている鉄板ネタのひとつが、「高校生のとき、通学電車でサラリーマンのおじさんに痴漢されつづけていた」という実話だ。

どんなおじさんに、どこをどういうふうに触られ、ぼくがどんな対応をしたのか。なぜ何度も何度も「されつづけていた」のか。そのへんの詳細を文章にするとたぶんドン引きされるので割愛するけど、まあ酔っぱらった場所での鉄板ネタとして、それはそれは重宝させていただいてきた。

ところが、この数年のこと。

ぼくが大爆笑ネタのつもりでその話をはじめても、あんまり笑ってもらえない場面が増えてきた。笑われないどころか、眉間にしわを寄せた神妙な表情で、深刻な空気のなか耳を傾けられる機会が増えてきた。まるでぼくが不幸なトラウマを告白しているような、「かわいそうな話」や「笑ってはいけない話」として受け止めるひとが増えてきた。たぶん、笑っていいものかどうか、迷っているのだと思う。


不謹慎って、厄介なもんだなあ。

たとえばテレビでおどける芸人さんに、「ふざけるな!」と憤慨するひとがいる。けれどもそれは、ハンマー投げの室伏選手に「ものを投げるな!」と立腹するようなものだ。芸人さんとは、「ふざけること」が仕事なのである。

芸人さんにかぎらず、「ふざけること」のすべてを不謹慎の名の下に糾弾する世のなかなんて、とんだディストピアだ。


不謹慎との和解。

深刻さとの別離。

そのふたつが、あかるい社会をつくっていくんじゃないのかな。

不謹慎を取り締まる世のなかって、あんまりにも余裕がないよね。