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おおきな主語を語るひと

「ほんとう」と「うそ」の境界線はどこにあるのだろう。

ドストエフスキーは『悪霊』のなかで、ステパン氏の口を借りて「真実を真実らしく見せるためには、少しばかり嘘をまぜなくてはならない」と語っています。真実をそのまま語っていると、どうも嘘っぽくなってしまう。真実に少しばかりの嘘をふりかけると、真実らしく見えてくる。もしかするとこれ、ぼくらが日常のなかで無意識的に実践していることかもしれません。

それで世のなかの「うそ」を見抜くコツ。そのひとつとしてぼくは、主語のサイズを考えるようにしています。

いちばんちいさな主語は、「ぼく」や「わたし」ですよね。この主語をもって語られることばは、嘘をつきづらいし、つかれる嘘も他愛のないものであることがほとんどです。

それが「ぼくら」や「わたしたち」になると、どうでしょう。ちょっとだけ、ミスリードしやすいことばですよね。「ぼく」の意見を「ぼくら」の意見にすり替えて語るひと、けっこういます。

また「日本人」や「アメリカ人」なんて大きなくくりかたも、かなりインチキだと思うし、ましてや「日本は〜」「アメリカは〜」みたいに国を主語にした言説は、とっても危なっかしい。巨大ななにものかに人格を付与するような言い回しは、陰謀論の常套手段です。

わかりやすいところでいうなら「メディアは〜」とか「霞ヶ関は〜」なんてのも、陰謀論の定番ですよね。ぼくの感覚でいうと、ネット上にあふれる情報のなかで「やたら主語がでかいけど、正しい」という情報は、1割にも満たないんじゃないかな。

もちろん、主語を「日本」や「アメリカ」にしないと語れないことは、たくさんあります。でも、たとえば自分がなにかを語ろうとするとき、主語のサイズを膨らませてないか? と考えることは、発信者のマナーとして心得ておくべきことかもしれません。

と言いつつ、この文章のなかにも一箇所だけ「ぼくら」を使っているのですが。