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「ぶれない」ことの落とし穴。

ゆるやかには20代から。本格的には30代から。

おとなになってからのぼくの人生は、「いかにしてマッチョ思想から抜け出すか」に費やされてきたように思う。そしてまだまだ自分のなかにマッチョ思想の残滓は残っていて、たぶんこれから長い時間をかけて、それを薄めていく営みが続いていく。ぼく個人に限っていえば、もう「マッチョ幻想からの解放」が、「おとなになること」と同義でもあるくらいだ。

ここでのマッチョ思想・マッチョ幻想とは、もちろん筋肉そのもののことではない。たとえば「男らしさ」みたいなものもそうだし、「物事を勝ち負けで考えること」もそう。気合いや根性に頼る考え方はもちろん、「強い自分であろうとすること」もマッチョ思想のひとつである。

それで最近、ちょっと気をつけたいなと思っているのが「ぶれない信仰」の存在だ。


一般的に「ぶれない」ことは、正しいことだとされている。何事にも「ぶれない」自分、初志貫徹する自分であることが偉いのだとされている。

しかし、「ぶれない」の前提にあるのは「おれの選択はいつだって正しい」だ。自分は正しいのだから、ぶれない。まわりの声に惑わされない。おれに間違いなど、あるはずがない。

この「ぶれない信仰」はやがて、「自分の非を認めるなんてありえない」になり、「自説を曲げることは、負けを認めることだ」になりうる。

「ぶれない信仰」と「マッチョ思想」は、おどろくほど仲がよいのだ。


とくにツイッターを「オピニオンの場」として活用されている方々に、それを感じることが多い。毎日たくさんの「ご意見」を投稿しているうちに、自分の誤りや勘違い——本来それは誰にだってあるはずだ——を認めることができないまま、自分のことばで自分を説得しながら、なんだか10年前とはまったくの別人みたいになっちゃった人、たくさんいる気がする。そして彼らはほとんど例外なく、マッチョな価値観のなかに生きている人びとだ。


ぼく自身、ストイックな「ぶれない人」をカッコよく思う気持ちはまだまだ強くあるんだけれど、ほんとうの強さは「正しく前言撤回できる人」なんだろうなあ、と思うのだ。前言撤回こそが、成長の萌芽なんだよなあ、と。


いやね、ちょっと前にある医療者のかたが「2000年代に思想界や医療分野ですばらしい活躍をされていた方々が、いまこんなに残念なかたちになってしまっているのは、ひとえに震災後も延々とツイッターをしていたからだと思う」という意味のことを書かれていて、まったくそうだよなあ、と思ったんです。毎日何十・何百のツイートをしていたら、前言を撤回する機会も発想も失われちゃいますしね。


脱マッチョ思想。レッツ前言撤回。大事ですよ、これは。