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満腹は、うれしくない。

何度も書いてきた話から、またはじめることにしよう。

二十代の一時期、ぼくはけっこうな赤貧を経験した。文字のとおりに「食えない」時期があった。からっぽの胃袋に無理やり水を流し込み、ひたすら横になった。眠ってしまえば空腹も忘れられる。睡眠は、最大にして最後の自衛策だった。

やがて金持ちではまったくないものの、たとえばラーメンにチャーシューを追加したり、煮卵付きの大盛りにしたりすることに躊躇しない程度には食えるようになった。毎日なにかしらの満腹を味わえるようになった。

朝から晩まで腹を空かせていた赤貧時代、ぼくは「永遠に満腹が続けばいいのに」と思っていた。空腹に悩まされることなく、ずっと腹の満たされた状態が続けば、こころも平和なまま生きていけるんじゃないかと思った。

けれども、ほんとうに毎日満腹するようになると、行き過ぎた満腹の気持ち悪さに辟易することとなった。満腹時の人間は、なにを見ても「うまそう」を感じられず、たとえばスーパーやコンビニの食料品売り場なんかも足早に素通りしてしまうものだ。

しばしば言われる「空腹は最高の調味料」的な話をしたいのではない。


人がなにかを見て「うまそう」と感じるとき、その人はもうその料理を食べているのだ。「うまい」のイントロとして、「うまそう」の思いを奏でているのだ。そして人は空腹であってこそ、こころの底から「うまそう」を感じることができる。料理人がいかに優れた料理をこしらえても、お客が空腹でなければほんとうの「うまそう」は感じてもらえず、結果としてほんとうの「うまい」も感じてもらえない。

で、これは本や映画や音楽でも同じことが言えて、作家たちがどれほど優れた作品を提供しようと、お客の側が空腹状態でなければ表面的な感動で終わってしまう。本や映画や音楽には、それぞれ触れるべきタイミングがあり、作家の側からそれをコントロールすることはできない。

だからこそ作家は、「あなたがこれを必要とするタイミング」にいつでも取り出せるよう、みずからの作品を紙や円盤に焼きつけ、配ってまわる。お客の側の人間は、「そのとき」がくることを信じて、いまは読んだり聴いたりしなくても積ん読しておく。こころの空腹は、「おもしろそう」と思える日は、いつかやってくるのだ。

たとえば4月〜5月の外出自粛期間、ぼくはなんとなく避けて通っていた韓国映画や韓国ドラマのいくつかを、どっさりまとめて観た。普段のぼくだったら触れないであろう『鬼滅の刃』も、存分にたのしんだ。単純に、お腹が空いていたんだと思う。


いや、お昼ごはんを食べすぎて、コンビニに寄ってもなにも欲しいものが思いつかなくて、満腹はよくないなあ、腹八分目でおさえることを覚えなきゃいけないなあ、と思ったのでした。