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月曜午後の、来訪者。

ツイッターにでも書こうかと思ったのだけど、文字数が足りなかった。

先週金曜日の夜に送っていた(途中までの)原稿を読んだ柿内芳文氏が、きのう電話をかけてきた。編集者とライターは、なかなかテンションが一致しない。彼が興奮ぎみに語る「この原稿」は、こちらからすればもう通り過ぎた過去の話で、いまは目の前にある原稿——彼が読んだものの続き——しか見えていないのだ。電話口で生返事をくり返すぼくに業を煮やしたのか、彼は「いや、もう、いまからそっち行ってもいいですか?」と訊いてきた。そして20分後、ほんとうにやってきた。

原稿について、彼の話を聴く。興奮した様子の彼に、コーヒーを淹れてあげる。「この本以前とこの本以後で、世界は二分されますよ! ほら、西暦のBCとADみたいに、ここが分岐点になる、すごい本ですよ!」。コーヒーをすすりつつ、彼は語る。おだてて木に登るほどの豚では、ぼくはない。もう十分にキャリアを積んだおじさんであり、そのことばのどこまでが本気で、どこからが続きの催促なのか、慎重に見定めようとしている。

ほめことばを語り尽くした彼は、だんだん持論をまくし立ててくる。

少なくともぼくと組んでいるときの彼は、「こんなふうに書いてほしい」とか、「こんな話を追加してほしい」とか、「ここは削りましょう」とか、そのへんの編集者的リクエストはほとんどしてこない。

代わりに、ぼくの原稿を読んだうえで組み上げた「おれの新説」を、朗々と語り始めるのだ。「いやー、古賀さんの原稿を読んで、ぼくもわかったんですけどね」と。興奮しているせいもあって、そこで語られる持論や新説は、半分も理解できない。

結果、ぼくはきのう何時間にもわたって彼の話の聞き役に回った。彼の自説や悩みや最近の関心事に、ただただ耳を傾けた。


ひとつ、なるほどな、と思ったことがある。

彼は今回の本を「ライターの教科書」ではない、と言った。「ライターとはなにか」について書かれた本ではなく、「プロフェッショナルとはなにか」について書かれた本だと。

「だから古賀さん、『こんなの、誰が読むんだろう?』とか、いっさい考えず、このまま書いてください。ライターや文章についての専門的な話が増えていっても、ぜんぜんかまいません。なにかのプロフェッショナルであろうとする人には、ぜったい響く内容になっていますから」


このひと言を聴くために、あの3時間や4時間の傾聴があったのだ。