見出し画像

オリンピックのはじまりに。

オリンピックがはじまった。

前にも書いたことをくり返すと、今回のオリンピック・パラリンピックについてぼくは「もしも開催された場合には、選手たちへの拍手と応援を惜しまない」と決めて、開会式当日までを過ごしてきた。「開催する」のは選手ではなく、「競技に臨む」のは背広組の面々ではない。そこは分けて考えようと、思ってきた。

そして実際に競技がはじまって、選手たちのインタビューを聴いていると、多くの選手が「この4年間、5年間の努力」を口にする。「開催してもらえたこと」への感謝をことばであらわす。彼ら・彼女らにこの場が提供されてよかったなあ、と感じ入る。


この1年半のあいだ、多くのお芝居、コンサート、その他イベントごとが、中止に追い込まれてきた。たくさんの準備を重ね、お金だって投じてきたはずの諸々が、中止を余儀なくされた。すると一部の人たちは、「そこから時代に即した販路を考え、おのれとそのビジネスモデルを変化させていけた者だけが、生存できるのだ」的な、おかしなダーウィニズムで話を済ませようとする。

けれどもたとえば、ぼくが4年や5年の年月をかけて書いてきた本があったとして、それが——書いた内容によってそうなるのならともかく——感染症を理由に発売中止に追い込まれ、テキストデータさえ削除されるようなことがあったなら、それはそれは失望・絶望すると思うのだ。もう、明日からの日々を生きる理由がわからなくなるくらいに。



なんかねー。ぼくは世代的に、星陵高校時代の松井秀喜さんが、夏の甲子園で5打席連続敬遠をくらって2回戦負けしたときの記憶が、いまでも鮮烈に残っているんですよ。「何年もの時間をかけて準備したきた人の『機会』を奪うこと」の残酷さについて。

そしていま、競技者人生のぜんぶをかけて準備してきた人たちが「オリンピック」に全力で臨んでいるさまを見ると、この場、この機会が提供されてよかったなあ、と思うんですよね。