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そのひと言から思いは継がれる。

なにも考えずにまず、「ごめんね」と書いてみる。

書けば、そこに続くことばが浮かんでくる。自分が「ごめんね」と思っていた人の顔が、浮かんでくる。言えなかった「ごめんね」を言えるのかもしれないことに、半分ほっとして、もう半分の胸がぞわぞわする。言うのかな、おれ、ほんとうに言っちゃうのかな。ほんとうはたくさんの「ごめんね」を抱えているもんね。ことばを継ぐ勇気が試される。


同じように冒頭に、「ありがとうね」と書いてみる。

こちらも、続きのことばが浮かんでくる。「ありがとうね」を伝えたい人の顔が浮かび、「ありがとうね」を思った場面が思い出される。それは、いつも伝えている感謝とはまた少し違った「ありがとうね」だったりする。ちゃんと言えてなかった自分を恥ずかしく思いながらも、これから言うであろう自分を、ちょっと好きになれたりする。


これはちょっと極端な例だけれど、ぼくは note で書くことに迷ったとき、この「とりあえず、あたまになにかを置く」からはじめることが多い。できればそのひと言は、話体の、誰かに語りかけるようなことばのほうがいい。つまり、「ごめん」よりも「ごめんね」のほうがよく、「ありがとう」よりも「ありがとうね」のほうがいい。

「ごめんね」だって「ありがとうね」だって、まだ言えてないだけでちゃんと思っているはずなのだ、ぼくらは。

きょうは、とりあえず「ごめんね」を書いてみたあとに、つらつらこんな話になりました。ぜんぜん謝ってる内容じゃなくなったけれど、こんな話ばっかりでごめんね、と締めておきます。