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もしもわたしが○○だったなら。

政治の話、としてではなく、ひとつの思考実験やトレーニングとして。

今日は2020年の4月2日、お昼の時間帯である。いまのところ政府はまだ、改正新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく「緊急事態宣言」を発令していない。最近はいろんなところで「出すなら早く出してくれ」の声を聞く。疫学的に、というよりも、こころの不安や迷いを取り除く手段として、それを望む人の声をよく耳にする。おそらく発令する場合、総理は記者会見をおこなうだろう。で、ひとりのライターとしてぼくは考える。


もしもこの状況で、自分が総理のスピーチライターだったなら、どんな原稿を書くのだろう?


法律のむつかしいことはわからない。改正された新型インフルエンザ等特別措置法についても、くわしく読み込んではいない。しかも、中央省庁から地方自治体までさまざまな行政機関が絡み、経済対策とセットで語られるであろう話だ。実務的な話なんて、ぼくに書けるはずはない。

けれども、そういうテクニカルな話は抜きにして、自分だったらどんなストーリーで、どういう文脈で、どんな比喩を用いながら、どんなことばによって国民にそれを説明するのか、考える。

危機意識の共有は大切だけれど、過度に不安をあおってもパニックを誘発しかねない。楽観でも悲観でも鼓舞や発揚でもない、誠実なことばと態度が必要になる。国民、メディア、与野党、さらには諸外国の反応まであたまに入れながら、ひとつずつことばを選ぶ。

考えるだけでもヒリヒリするけれど、おそらくもう、誰かがやっていることなのだ。スピーチとしての出来不出来は別として、それに取り組んでいるという事実にただ、あたまが下がる。ライターや編集者であれば、一度は考えてみるに値するテーマだと思う。



あるいは政権批判——これは当然で健全な国民の態度だ——をしたくなったとき。なるべくセットで「もしも自分がこの政権を支持するとしたら、それはどんな政策を打ち出してくれたときだろう?」と考える。仮に「どんな政策を打ち出したところでダメだ。嫌だ。退陣しろ」というのなら、まともな議論は成立しない。そりゃあぼくだって歴代の総理について、「この人は嫌だなあ」はある。けれども個人的な好悪とは別に、政策ベースでなにかを考え、語れる自分でありたいと思っている。けっきょくはこれも、「もしも自分がこの人のスピーチライターだったなら」につながる話だ。


政治家にかぎらず、経営者やスポーツ選手、芸能人など、いろんな人についてぼくは「もしも自分がこの人のスピーチライターだったなら」を考えている気がする。