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デヴィッド・ボウイの思い出

大学のころ、けっこうなヘビースモーカーだったぼくは、マルボロの赤を吸っていた。デヴィッド・ボウイが吸っていたからだ。あるインタビューで好きな煙草の銘柄を訊かれた彼は、こんなふうに答えていた。

「マルボロだよ。世界のどこでも買えるからね。ぼくのような仕事をしていると、それは大事なことなんだ」

自分も将来、そんなことを嘯く人間になるのだろうか。なるのだろうな。ならなきゃおかしいよな。英語なんかぜんぜんできず、そもそも九州からも出たことさえないくせに、いつか訪れるはずの「世界のどこでもそれを買える日」のために、せっせとマルボロの赤を吸っていた。もう20年以上前のことだ。


高校時代にいちばん仲のよかった友達は、「ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュが飲んでるから」というだけの理由で、いつもジャック・ダニエルを飲んでいた。

たいていのクラシック・ロックは聴き込んでいた彼は、ボウイだと『ジギー・スターダスト』と『世界を売った男』がベストだと言った。それに対してぼくは、『ヒーローズ』と『ロウ』が好きだった。地下鉄のホームでボウイの最高傑作を論じ合っていたのを覚えている。福岡市営地下鉄の、たしか藤崎駅だ。いまになるとよくわかるのだけど、当時のぼくらは「ボウイの最高傑作を論じ合える自分」が誇らしく、うれしかったのだ。

あんなに仲のよかった彼とも、もう20年以上も会っていない。

彼はいまもジャック・ダニエルを飲んでいるのだろうか。もしも彼と再会したとしてぼくは、「それでどう? 仕事忙しい?」などとつまらない話をしてしまうのだろうか。

きっと当時のことを語り合ったら、お互い「そんなことあったっけ?」の連続なのだと思う。忘れてしまったエピソードはもちろん、誤解もあるだろうし、濡れ衣だってあるだろう。そうやって、自分のなかで育てていった記憶をたぶん、思い出と呼ぶのだろう。

間違えないようにしよう。ぼくらが「記憶」だと思っているもののほとんどは、「思い出」である。

記憶は薄れ、思い出だけが育つのだ。