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キャッチボールの教訓。

十数年前に一度だけ、草野球の試合に呼ばれたことがある。

映画監督、デザイナー、ウェブディレクターなど、およそ健康とは縁遠い人びとの集う、目の下がクマだらけのチームだった。対戦相手は毎週のように試合をこなす、本気の草野球チーム。勝敗はおぼえていないものの、勝ったりよろこんだりの記憶がまるでないので、予想どおりにボロ負けだったのだろう。おぼえているのは一打席だけツーベースヒットを打ったことと、試合前のキャッチボールである。

ぼくがボールを投げる。高めにおおきく外れ、相手がジャンプしながらかろうじて、へなちょこ球をキャッチする。「ああ、ごめんごめん」。振りかぶって相手が投げ返す。「あー、ごめーん」。笑っちゃうほどおおきく外れた球に、ぼくは精いっぱい手を伸ばす。そんなやりとりを何往復かくり返していくうちに、どうにかキャッチボールのかたちになっていく。へなちょこなりに、それほどおおきく外れないキャッチボールができるようになっていく。投げることと受けとることが、ごくごく自然になっていく。


コミュニケーションはしばしば、キャッチボールにたとえられる。


相手が受けとりやすい球を投げなさい。相手の投げた球をきちんと受けとってあげなさい。そんな教訓が、牧歌的なキャッチボールのイメージとともに語られる。それゆえ「キャッチボールの教訓」は、利他の精神をあらわすものとして語られることが多い。

でもなあ。

「情けは人のためならず」のことばがあるように、キャッチボールに流れる親切心とは、けっきょくのところ自分のためだと思うのだ。

敬意や親切心、そして丁寧さをもって相手と接していれば、やがて互いの肩が温まっていく。勘を取り戻し、コントロールを取り戻していく。ボールに力を込めても、もう外さない。ズドンと直球を投げ合うような、「ほんとうのキャッチボール」ができるようになる。気のおけないピッチャーになり、気のおけないキャッチャーになる。そんなふたりで続けるキャッチボールは、うっとりするほど気持ちがいい。


野球を知らない国に生まれていたらぼくは、このへんの感覚、どんなたとえで語るんだろうな。サッカーのパスは少し、違う気がするんだよな。