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もっと過激の落とし穴。

出版業界のこれからを考える。

みたいな話をするとき、しばしば先行事例として俎上に載せられるのが、音楽業界と映画業界である。レンタルビデオ・レンタルCD店の誕生により、映画館やレコード屋さんの客が奪われた。iTunesの誕生により、モノとしてのCDを誰も買わなくなった。NetflixやSpotifyの誕生により、作品単体の購入さえなくなってしまった。このへんの話を出版に絡め、kindleやそのサブスクリプションである kindle unlimited に未来を語り、あるいは音楽業界における「フェス」になぞらえて、サロンやコミュニティの囲い込みビジネスを語る、といった人びとである。

正直なところぼくは、これらのお話を「ふーん」とか「へーえ」程度にしか聞いていない。ぜんぶ流通レベルの話で、コンテンツそのもののあり方を問うているようには思えないし、そもそも比較対象としての音楽や映画が、いかにも本に近すぎて短絡的に思えてしまうからだ。基本的にぼくは、比べるものの距離が遠ければ遠いほど、おもしろい答えに出会えるものだと思っている。


というわけで出版のこれからについて、かつてのぼくが大好きだったプロレスという分野に置き換えて考えてみたい。


おおざっぱな話をすると日本におけるプロレスは、力道山という元関脇力士によってつくられた。空手チョップでおおきなアメリカ人レスラーをばったばったとなぎ倒す力道山は、敗戦の記憶も生々しい日本において、またたく間に国民的ヒーローとなった。

力道山の死後、彼のつくった日本プロレスという団体は、ジャイアント馬場とアントニオ猪木のWエース時代に突入した。ふたりのタッグはBI砲と呼ばれ、これまたおおきな人気を博した。しかし、団体の真のエースは年長者でもあり、元巨人軍投手でもあり、アメリカ遠征での実績も日本人ナンバーワンのジャイアント馬場だった。

やがていろいろあって日本プロレスを追放されたアントニオ猪木は、あらたに自分をエースとする新団体、新日本プロレスを設立する。日本のエースであるジャイアント馬場に対抗するため彼は、のちに「ストロングスタイル」と呼ばれる過激なプロレスを志向する。有名な異種格闘技戦のシリーズも、要はジャイアント馬場への対抗心、ジャイアント馬場を超える路線としてスタートしたものだった。

こうして長く、馬場(全日本プロレス)と猪木(新日本プロレス)の両雄がそれぞれ君臨するかたちで昭和の時代が進んでいくなか、これまたいろいろあってUWFという団体が設立される。新日本プロレスで将来を嘱望されていた、前田日明をエースとする団体だ。

テレビ局との中継契約を持たず、人気外国人レスラーを招聘する人脈や財力を持たなかったUWFは、ほんとにいろいろあった結果「もっと過激なプロレス」に活路を見出す。馬場はもちろん、猪木よりもずっと格闘技的な、まるで真剣勝負であるかのような、キックと関節技主体のプロレスを志向していく。

そして時代が平成に入ると、FMWなる団体が設立される。大仁田厚をエースとする団体だ。同じくテレビもなく、人脈も財力もなかったFMWは、やはりいろいろあった結果「もっともっと過激なプロレス」をめざしていく。大仁田厚の代名詞となった有刺鉄線電流爆破デスマッチなどは、そのわかりやすい例だ。

この大仁田厚の成功をきっかけに、日本のプロレス界は多団体時代に突入し、何十ものインディー団体が乱立する訳のわからない平成プロレスがはじまった。

それで平成が終わりを迎えようとしている現在。

過激さをきわめたインディー団体のほとんどは消滅し、むしろ猪木や前田、そして大仁田的な過激さをセーブすることに成功した新日本プロレスが、業界を独占する状況になっている。



ぼくは近年の出版業界まわりのごちゃごちゃした動きについて、インディー団体が乱立した平成ゼロ年代のプロレス界を見るような目で、眺めているところがある。有刺鉄線だの電流爆破だの地雷爆破だの、装置の過激さに力点を置いたクリエイティブは、どうしてもその(試合)内容をおろそかにせざるをえず——電流の流れる有刺鉄線に囲まれたリング中央で関節の極め合いをしても意味がないのだから——けっきょく「過激さ」に頼ることはクリエイター(プロレスラー)としての自分の首を絞める表現だものなあ、なんてことを思ったりしている。そして「過激さ」を標榜することなく、ほんとうのあたらしさを生むために必要なものはなんなのか、ずっと考えている。


まあ、こんなふうにプロレスで考えてみたけれど、いろんな分野のいろんなことが、いまの自分に置き換えられるはずなんですよね。とりあえずぼくは「出版」を音楽や映画になぞらえて語るのがつまんなく感じるんです。