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感受性を育てるために。

ぼくは「記者会見」というものに参加したことがない。

なにかを「会見」する側に立ったこともなく、その会見を聞く「記者」側に立ったこともない。おそらく今後もそういう機会はないだろうと思われ、ぼくはこれまでもこれからも、ひとりのお客さんとして記者会見の中継映像を視聴していくのだろう。

きのう、日本サッカー協会の田嶋会長、西野監督、長谷部選手の記者会見をインターネット中継で見た。こういうときぼくは、いつも「自分だったらどうするだろう?」を考えながら見る。「自分が記者としてその場に出席していたらどんな質問をするだろう?」と考えるのはもちろんのこと、自分が田嶋会長だったら、自分が西野監督だったら、自分が長谷部選手だったら、それぞれどんな話をするのだろう、とわかるはずもないことを考える。

きのうの記者会見でいえば、冒頭におこなわれた田嶋会長、西野監督、長谷部選手による挨拶では「自分だったらなにを言うだろう?」と考えながら見ているし、続く代表質問では「自分だったらなにを訊くだろう?」と「この質問にどう答えるだろう?」をスイッチングしながら見ている。さらに代表質問終了後の質疑応答では、代表質問とは違った角度として「自分だったらなにを訊くだろう?」を考え、そこへの「その質問に自分はどう答えるだろう?」を考える。

……と書くと、お前はなにも聞いていないのか、自分が空想を膨らませるばっかりで、監督や選手の発言を聞き流しているのか、と怒られそうだけど、それは違う。むしろ、監督や選手の発言を聞き逃さないために、あれこれ空想しているのだ。「自分だったらこう訊く、こう答える」を考えまくっているのだ。

たとえばきのうの記者会見では、長谷部選手に対して、代表引退宣言に関する質問が飛んだ。その瞬間、自分だったら「サポーターへの感謝」「4年後を見据えた自身の年齢と世代交代の必要性」「海外では当たり前になりつつある代表引退宣言の文化を日本にも根づかせたいこと」なんかを語るかな、と空想する。なんでもいいから仮説を立てる。

そのうえで、長谷部選手が語り始めた「喪失感」の話を聞くと、そのことばの重みがぜんぜん違ってくる。聞き手としての驚きがまったく違ってくる。ぼんやり答えを待っていたのでは得られない心の揺れを、体感することができる。もちろん、そこで聞いた話を原稿に書くときには、自分の驚きを読者にも追体験してもらえるよう、細心の注意を払おうとするだろう。おのずと筆圧が強くなるだろう。


もし「感動する力」や「びっくりする力」のことを感受性と呼ぶのなら、それは先天的な能力というより、日々の訓練や心掛けによって維持できるものだとぼくは思っている。ただただ「これ、自分だったらどうするのかな?」を考えればいいだけだ。そしてその都度、「そうきたか!」と裏切られればいいだけだ。感動もびっくりも一種の「裏切り」であり、気持ちよく裏切られるためにはまず、自分に仮説が必要なのである。